主に政治などの真実に関してわかってきたことを世の中の目覚ましアラームとして書いてます(^_^;) @JunjiHattori


by rakusen21

プロフィールを見る
画像一覧

寄付のお願いとリンク

私のようなフリーなUSTREAM中継市民やネットジャーナリストを応援してください。
寄付をよろしくお願いします。
(^_^;)

ゆうちょ銀行:東京 上石神井
記号 10560
 ※ネットからは〇五八 店
        (ゼロゴハチ店)
番号 858351
服部 順治

三菱東京UFJ銀行:五反田支店
店番 537 
普通口座 4701559
服部 順治

以上、よろしくお願いいたします。
私のツイッター

なお私のサイト紹介:(^_^;)

小説9.11ネクスト

めざまし政治(旧落選運動)

世界の仕組みなどを教えてくれる「ツァイトガイスト 時代の精神

9.11の真実

日航機墜落の真実を求めて

人工地震兵器HAARPの真実

地球温暖化詐欺の真実

記事ランキング

最新の記事

安倍晋三らオウム地下鉄サリン..
at 2017-03-14 06:39
マスコミではタブーのバングラ..
at 2016-07-06 14:27
衝撃のアメリカ地下軍事基地の..
at 2015-11-04 06:16
福島原発爆破および3.11人..
at 2015-08-08 02:25
最高裁がアメリカに占拠された..
at 2015-07-20 02:45
韓国MERSはペンタゴンの生..
at 2015-06-20 12:28
殺されたNHK:ダイイング・..
at 2015-05-31 08:39
徳島不正選挙の顛末:不正選挙..
at 2015-05-12 22:39
天皇日銀の犯罪:北朝鮮拉致事..
at 2015-04-05 10:39
実は今も続く天皇財閥の支配(..
at 2015-04-01 15:18
ドイツ航空機A320墜落の真..
at 2015-04-01 12:58
ディズニーランドに閉じ込めら..
at 2015-03-24 11:03
プーチンを殺せ!マレーシア機..
at 2015-03-23 02:22
NHKが暴露したオウム事件の..
at 2015-03-20 23:29
今も残る裏社会の忍者とその歴..
at 2015-03-20 00:05
天皇のデスノート~オウム、福..
at 2015-03-18 20:53
日本財団(統一教会)に操られ..
at 2015-03-15 13:38
戦後も変わらない天皇日銀欧米..
at 2015-03-08 09:51
遂に発見!天皇の出自=「百済..
at 2015-03-05 10:36
吉田所長「爆発したら、また死..
at 2015-03-03 08:16

以前の記事

2017年 12月
2017年 03月
2016年 07月
2015年 11月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 07月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 01月
2012年 10月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 03月
2006年 05月
2006年 02月
2006年 01月
2005年 09月

ブログパーツ

最新のコメント

ブログを拝見しました。 ..
by 原発もうたくさん at 07:20
ブログ拝見させていただき..
by dokuritsusite at 06:38
隠蔽のために作業員に身元..
by p at 23:13
相馬イコール現在の柏?な..
by 相馬小次郎 at 03:56
 最近、日本の経産省の認..
by 日ピス工具鋼 at 20:53
天皇日赤日銀財閥一族らは..
by アプルパイ at 22:10
地震時には同業者が土工事..
by パイルマン at 12:00
地球大掃除   熊本の..
by chotatsmaki at 07:10
確かに創価学会と指定暴力..
by 創価学会調べ at 22:11
出鱈目過ぎてめんどくさいわ 
by a at 11:40

最新のトラックバック

偽の旧一万円札600枚使用か
from 時々時事爺
貴方は菅・岡田・民主党に..
from YAMACHANの@飛騨MA..
放射線を少し浴びると元気..
from ティルさんの気まぐれ日記 S..
菅陣営、政治とカネで攻撃
from 時々時事爺
(映画)アバター(AV..
from ゼロから
アバター:アメリカの恥部..
from にほん民族解放戦線^o^
09-357「AVATA..
from CINECHANの映画感想
映画「アバター 3D 字..
from ディレクターの目線blog
陰謀論の主要作家紹介と完..
from ダ・ヴィンチ・コードの解説!
2009年8月30日無血..
from エクソダス2005《脱米救国..

カテゴリ

全体
市民デモ
時事
随筆
この世の闇に巣食う者たち
医療問題
市民の声
この国のあり方
地政学
金融マフィアの動向
天皇の起源と系譜
歴史の真実
福島原発事故
科学と技術
不正選挙
未分類

画像一覧

ブログジャンル

サラリーマン
政治・経済

検索

お気に入りブログ

ファン

人気ジャンル

今も残る裏社会の忍者とその歴史:風魔忍者と鉢屋衆(忍たま風俗館)

 以前、私達がツイートテレビで放送した「小沢一郎を殺せ」 で、その裏社会で暗躍していた忍者の歴史と現代への関わりを調べてくれた人がいた。

感謝、感謝!



また
というサイトのコピーもあった。

この方は丁寧にその現場にも足を運ばれて、コメントに下記のように残されていた。非常に貴重なコメントだったので、そのコメントを紹介し、この記事を終わります。

なお鹿島昇氏の「日本史のタブーに挑んだ男」の書籍より得られた内容のツイートもここに一部、紹介します。

歴史にまつわる私のツイートリスト(その一部)


引用開始 -------------
03. 五月晴郎 2011年10月15日 15:11:20: ulZUCBWYQe7Lk : bxtHsuzmZA
「水戸藩専用の本陣であった日暮玄蕃(ひぐらしげんば)の家は、小金小学校より約10m南というので探してみたが、面影はなく、人に聞いても知らなかった。」
水戸道中3馬橋~我孫子

平成17年10月30日(日)

―重文を股くぐり仁王像・馬除土手の面影もない小金牧―

(平成17年11月7日更新)

【本日の行程:街道距離14km】

馬橋駅(9時30分)→萬満寺(9時55分)→小金宿(11時15分)→日光東往還との追分(14時30分)→柏神社(15時10分)→我孫子駅(17時20分)
--------------------------------------------------------------------------------
・9時30分馬橋(まばし)駅に降り立つ。今日は一日中曇りの天気予報だ。前回真っ暗になったので、道を馬橋駅入口まで戻り、馬橋という地名の由来となった馬橋を見たが、水路のような川とともに何ら風情は感じられない。

・右手東京ベイ信用金庫の前に「栢日庵立砂(はくじつあんりゅうさ)の居宅跡」と書かれた松戸市教育委員会が立てた白い案内標識がある。「旧水戸街道繁盛記」には「大川立砂」となっているが、東葛地方の有名な俳諧人で親子ほどの年の差があった小林一茶から爺と慕われ、一茶が度々訪れている。

・その向いに分家の大川米店があったはずだが、マンションとドラッグストアになっていて、店の人も知らない。少し離れた店の人が確かにあったと話してくださった。少し行って左手に大川の表札の旧家、萬満寺の向いに大川病院、その先に大川歯科があるが、関係があるのだろうか。

・道は萬満寺に突き当たる。萬満寺の仁王門の両側を守る仁王像は、眼光鋭く、巨大で筋骨隆々の体躯が黒光りしており、迫力満点だ。国の重要文化財に指定されている。毎月月末、右の仁王像の股くぐりで賑わうそうで、昨日まであったというから惜しかった。わずかの隙間しかないが、本当に大人がくぐれるのだろうか。

萬満寺仁王像(国重文)

・萬満寺を右に曲がってゆるやかな上り坂となる。6号線に合流する八(はち)ケ崎交差点の角右手に文化3年(1806)の道標がある。「左水戸街道」「右印西道」と刻む。

・そのまま6号線の右手を歩いていると、安楽亭の先に思いがけず松戸市教育委員会の「一里塚」の案内標識が目に飛び込んできた。予期せぬ発見にうれしくなる。

・二ツ木交差点の一つ先信号左手に蘇羽鷹(そばたか)神社がある。鳥居の右手にある天保11年(1840)の出羽三山等供養塔には「松杉をほめてや風のかをる音 はせを」と刻まれているのを発見した。芭蕉句碑だ。これも予期せぬことで、大発見をしたような気になる。境内には力石もある。神社の裏は、縄文時代前期(6000年前)の二ツ木向台遺跡になっている。

蘇羽鷹神社

・道は神社の向いの二股を右に入っていく。分岐点に「水戸街道」の案内標識があり、「現在地から北方の6号線との交差点までの約900mは当時の道形を残しています。」と書かれている。

・少し先、武蔵野線のガード下をくぐって行く。なるほど、幹線道路の喧騒から解放されて静かではあるが、大きなマンションが建ち並び、昔の風情はほとんど感じられない。けやき通りを横切って坂を上っていくと左に江戸屋酒店がある。この向いにも水戸街道の案内標識がある。この辺りはやや旧道の面影を感じる。

江戸屋酒店付近(右に「水戸街道」標識)

・国道6号の交差点に突き当たり、左に寄り道すると、常行院がある。何故か三つ葉葵の紋がある。墓地入口には、宝暦年間の古い六地蔵が並ぶ。

・国道6号の交差点に戻り、国道6号を横切って進む。

・暫らく行くと、右手に、新しいが門構えの立派な永妻家がある。家の前の案内板によると、屋号「あめや」で、水戸街道小金宿で古いのれんを誇る飴の製造販売業者だった。先祖には、大川立砂の門人もいて、小林一茶も宿泊したという。

・左手に一月(いちげつ)寺がある。鎌倉時代初期の創建で、江戸時代には、青梅の鈴法寺とともに関東地域の普化宗諸派を統括した。虚無僧で有名な寺だ。

・左手の古い連子格子の鈴木家は、江戸時代は玉屋という屋号で小金宿の旅籠を営んでいた。この建物は徳川時代後期の旅籠の原形をとどめているという。

小金宿旧旅籠玉屋

水戸藩専用の本陣であった日暮玄蕃(ひぐらしげんば)の家は、小金小学校より約10m南というので探してみたが、面影はなく、人に聞いても知らなかった。

・小金小学校バス停前、梅澤家の庭には、よく見ると、茂みに隠れるようにして、「明治天皇小金宿御小休所」と書かれた碑が建っている。これも大発見だ。

・その先左手東漸寺は、参道が長く、本堂までに三つの門がある立派な寺だ。ここにも三つ葉葵の紋がある。関東十八壇林の一つの名刹だ。

東漸寺

・道は、サティの前の交差点で右に曲がる。その右手北小金駅方面の側に文化5年(1808)の大きな道標がある。「平賀本土寺」と書かれており、北小金駅方向に直進すると、常盤線の先に本土寺がある。

・ここで一歩は、サティに飛び込んだ。さっきからトイレを我慢していて破裂寸前だったのだ。

・スッキリしたところで、綿貫書店に行ってみた。御主人は、野馬奉行の綿貫夏右衛門の子孫だという。「元は「月見里」と書いて「やまなし」と呼びました。桓武天皇から続いた家系でしたが、家康から綿貫という姓をもらいました。私で15代目です。綿貫家はさっきのサティの向い辺りだったといわれています。私は教師をしていましたが本屋は私の代で始めました。よくいろんなことを聞いて来られます。古文書類は、県の文書館に預けました。私は古文書が読めなくて・・・。」古文書というのは、大学で勉強しても、実際に庶民の字は、崩し方に個性があってなかなか読めないそうだ。「野馬除(よけ)土手?水戸街道沿いには残っていませんね。」「日暮玄蕃の家?梅澤家の隣辺りでした。子孫に遊び人がいて歌にまで歌われています。小金小学校入口の少し南の東側にある大塚家が屋号は井筒屋といいますが本陣だったと名乗っています。」と、地図を書きながら話に夢中になって、お客さんの釣り銭を間違えてしまう始末。これでは商売の邪魔だと、まだまだ聞きたい気持ちを抑えて退散した。

・再びサティに戻り昼食。サティの2階とデッキでつながる向いのビルに小金宿と小金牧の由来の解説が書いてある。小金牧は、古代律令制の官牧が起源で、徳川家康は、古代以来の牧場を整備、野田市から千葉市花見川区に及んだ広大な土地の小金牧の管理を綿貫氏に任せたのが野馬奉行の綿貫家の起こりだ。

・サティ前の右折から再スタート。右折した直後左手に道標が二基ある。新しい方は「右 水戸道」「左 なか連山道」、古い方は「右水戸海道」「明和五年」(1768)と読める。

・小金交番の交差点を横切ると銀杏並木になり、左右はマンション群だ。下り坂が続き、上り坂になってまもなく根木内交差点で6号線を横切る。

・根木内交差点の次の交差点から先は下り坂になる。

・根木内城址橋を渡ると緩やかな上りになり、道が左に曲がって右に大きく曲がる。右の角に「馬頭観世音」の文字塔が倒れている。その横に地蔵がある。

・再び左に大きく曲がる右手に、須賀工業の研修所があり、その下に宝暦12年(1762)の青面金剛と享保9年(1724)の庚申塔がある。その先のバス停に「庚申塚」とあるのはこれのことか。

庚申塚

・左手に行念寺がある。元禄5年(1692)の如意輪像などがある。

・中新宿(なかしんじゅく)バス停を過ぎ、いつの間にか流山市に入っている。左手に、青面金剛と聖徳太子と書かれた碑がある。

・左手に香取神社がある。江戸初期創建、旧向小金(むかいこがね)新田の産土神だ。一里塚跡の碑があり、一茶の句「下陰をさがしてよぶや親の馬」が書かれている。境内には古い庚申塔もある。

香取神社(鳥居左に一里塚跡碑)

・柏市に入り、今谷上町(いまやかみちょう)の左手民家の前に土手のようなものを見付けた。「これこそ野馬除(よけ)土手だ。」と思った一歩は、道行く人に聞いてみたが、残念ながら野馬除(よけ)土手という言葉そのものの理解が得られなかった。一歩は、なま道を歩いたとき五香の先で見た野馬除土手跡を思い出していた。(百街道一歩のなま道3参照)

・「南柏駅東口」と書かれた交差点手前角にある稲荷神社は、今時珍しい茅葺だ。

茅葺の稲荷神社

・その一つ先の交差点右手に、今谷上町八坂神社があるが、その前に「水戸街道と松並木」と書かれた案内板がある。野馬奉行綿貫夏右衛門が水戸侯から資金を得て、両側に千本の松を植えたのが松並木の始まりだったという。つい最近まで、松が残っていたようだが、今はもう見られない。

・左が日光東往還の交差点右手には、中嶋家、たんば家?と大きな家が続く。ここは、日光東往還との追分で、左の日光東往還を行くと関宿(せきやど)を経て雀宮で日光道中に合流する。この辺りは、野馬土手の木戸があったというが、今は、少し先右手豊受(ゆたか)稲荷神社の前の「新木戸」というバス停に名残をとどめるのみだ。

日光東往還入口

・左手に神明神社がある。案内板によると以下のとおり。明治政府は、殖産事業として徳川幕府の下総牧場であった小金牧と佐倉牧を開墾した。そして開かれた土地には、初富(はつとみ)(鎌ヶ谷市)、二和(ふたわ)(船橋市)、三咲(みさき)(船橋市)、豊四季(とよしき)(柏市)、五香(ごこう)(松戸市)、六実(むつみ)(松戸市)、七栄(ななえ)(富里村)、八街(やちまた)(八街町)、九美上(くみあげ)(佐原市)、十倉(とくら)(富里村)、十余一(とよひと)(白井市)、十余二(とよふた)(柏市)、十余三(とよみつ)(大栄町)と、順番に美しい地名が付けられた。この地柏市富里は、かつては豊四季の一部だった。武士を始め次男、三男や変革により職を失った入植者がこの神社を創建して心のよりどころにしたという。

・東武野田線の高架下をくぐると、柏の市街地になる。

・繁華街の中心である柏駅入口近く、右手柏神社の前には、「水戸街道の木戸」と書かれた案内板があり、「小金牧」と、「野馬土手」の解説が書かれている。牧と村の出入口に馬が入ってこないように木戸が作られた。木戸があった所が柏一番地だという。

・柏神社は、立派な神社だ。入口の所に、大きな銀杏の木があり、庚申塔も並んでいる。宝永4年(1707)の文字が読める。

柏神社

・左手サンサン通りの交差点を渡った左側角の駐車場前に「明治天皇柏御小休所」の碑がある。

・16号線手前左手にこんもりした森が見える。ここは、諏訪神社だ。「奥にもいろんな末社がりますよ。」と、境内で話しかけてきた女性が「豊四季にも諏訪神社があります。」と語る。

・柏公園の表示がある非常に大きな交差点は、その名も「旧水戸街道入口」。ここで16号線を横切る。

・前方に玉姫殿のおとぎの国のような建物が見える。旧道はこの手前で常磐線に寸断されている。やむなく常磐線を跨ぐ陸橋を行く。

・線路伝いに北柏駅方向に向かう途中、左手に、馬頭観世音菩薩がある。道標を兼ね「な可れやま道」と書かれているように思う。

・「北柏入口」の辺りの道は複雑だ。6号線とアサヒビール工場にはばまれているので、曲がりこむように歩いて、アサヒビール工場の前を右折、「ちがね橋」バス停の前の通りに出る。

・その先をずっと上って行くと右手に北柏駅がある。上りはそのすぐ先まで続き、下りになる。

・夕闇迫る根戸の集落の辺りは、古い大きな家が多く、落ち着いた佇まいだ。旧道らしさという点では本日一番だろう。

根戸の集落

・左手に東陽寺がある。緑に包まれた落ち着いた静かな空間が広がる。本堂の建物も立派だが、その横に広がる庫裏と庭の芝生が御殿のようで目を見張った。

東陽寺

・右手に妙蓮寺がある。案内板によると、ここには我孫子市指定文化財、仁阿弥道八(にんあみどうはち)作「陶製仁王像」があるそうだ。

・右に大きくカーブすると、最初の信号左手に、祠が見える。二十三夜塔があり、その横に何故か折れた道標のようなものが重ねて置いてある。

・国道6号を渡って、なおも356号を行く。常磐線が近づいて来る。「台田」というバス停だが、左右は畑なのに、前方左手に巨大なマンション群が建っているのが印象的だ。

・常磐線を再び陸橋で跨ぐと我孫子駅も目前だ。真っ暗な中、我孫子駅に行く途中、八百屋さんで見たこともない巨大なサトイモを見付けたので土産に買い求めた。「セレベスの親」と書かれている。

・我孫子宿の探訪は、次回の楽しみとし、本日は、我孫子駅までとする。


04. 五月晴郎 2011年10月15日 15:23:00: ulZUCBWYQe7Lk : bxtHsuzmZA
小金城(千葉県)
--------------------------------------------------------------------------------
所在
 総武流山鉄道、その名も「小金城趾」駅から徒歩10分程度。駅から見て東側にあたる大谷口歴史公園がかつての小金城跡である。ただし、本来の小金城は広大な面積を占める巨城であり、他にも旧城域の遺構が部分的に残っているというが、今回は公園だけの見学にとどまった。

沿革
 「大谷口城」とも呼ばれる。関東の名族・千葉氏を支えた重臣・原氏のそのまた家臣にあたる高城氏の居城。築城は天文6年(1537年)、高城胤吉によると伝えられる。主家をしのぐ勢力を誇った高城氏は、小田原北条氏が下総に進出してくるとこれに従い、他国衆に名を連ねて各地を転戦した。下総屈指の実力者が居を構えた城にふさわしく、その規模はいくつもの丘陵地にまたがる巨大なものである。しかし北条氏の滅亡後に廃城となり、二度と再建されることはなかった。現在の小金城跡は、戦後の開発による変化が著しく、大谷口歴史公園など一部の遺構を除けば在りし日の姿を偲ぶことは難しい。

見聞記
 2010年1月30日訪問。実は家からかなり近いところにあるお城で、前々から一度行かんといかんなと思っていた。いや、別に近くたって見に行く義務はないのだろうけれども、一応。

 常磐線を馬橋で乗り換え、流山鉄道に乗って小金城趾駅へ。宅地化が進んでいるとはいえ、ところどころに畑も残り、まずはのどかな風景である。
 駅の東口から出、城跡のある大谷口歴史公園へ向かう。駅前の道を右に歩き、運動公園のある突当たりを左折すると、あとは道なりに歩いていけばよい。途中、道の右側に木が茂った微高地が見え、「大谷口馬屋敷緑地」という地名の看板が出ているが、これも城の遺構に含まれる。細長く削平されたような土地で、道側がわずかに盛り上がっているのは土塁の跡にも見える。それにしても「馬屋敷」とは面白い地名で、城のための軍馬を飼う場所だったのか、それとも馬の飼育を担当する武士の屋敷があったのか。

 馬屋敷からもう少し先に進むと、目当ての大谷口歴史公園に出る。木々に覆われた背の低い丘で、一見したところは何の変哲もない森林公園でしかない。しかしこれこそは、下総の大城郭・小金城の在りし日の姿を今に伝える貴重な史跡であり、土地所有者の厚意により歴史公園としての保存が可能となったものである。都市化の波に洗われる場所では、このような有徳人に巡り合わない限り、戦国の城跡が生き残ることは難しいのだろう。
 大谷口歴史公園は、かつての小金城内では金杉口と呼ばれていた虎口の跡にあたる。これは城の北側の出入り口であったらしい。入口付近に木でできた簡単な冠木門が復元(?)してあるのは、門であった当時を表現しているのだろう。発掘調査により様々な発見があったらしく、ところどころに詳しい説明の看板が立っているのはありがたい。
 ただし遺構が大規模に残っているわけではなく、一見したところ城跡とは分かり辛いかもしれないが、例外として障子堀跡がある。底に1か所、敵の動きを阻害するための間仕切りが設けられた堀である。小田原北条氏の勢力圏で多用された技術であり、高城氏が北条氏の傘下に入ったことと無関係ではないだろう。ただし、肝心の障子(間仕切り)部分は保存のため土に埋め戻してしまったようで、現在ではただの空堀にしか見えないのはちょっと残念。

 遊歩道に沿って緩やかな丘を上っていくと、背の低い土塁に縁取られた方形の空間に出る。ここが大谷口歴史公園の中心であり、昔は曲輪の一角だったのだろう。土塁は高さも幅もそれほどの規模ではないが、説明板によれば外側に空堀が設けられていたため土塁を大きくする必要はなく、身を隠す程度のものでしかなかったとのことである。
 別の説明板では、航空写真を利用し、かつての城域が図示されていた。これによれば、まさしく巨城としか表現しようのない、圧倒的なスケールを持つ城であったらしい。このほとんどが宅地化してしまったのか…改めて、人間という生き物は過去の上に現在を積み重ねて生きているものだなと思う。

 もう少し先に進むと、一段下がったところに畝堀の跡が現れる。空堀の中に幾条もの畝を作り、堀底に侵入(転落)した敵兵の動きを止めるための工夫で、先に見た障子堀と同じく北条系の城郭ではおなじみの存在だ(この城跡では畝が一つしかないものを障子堀、複数のものを畝堀と呼称しているらしい)。当城では比較的明瞭に畝が残っているとのことで、楽しみにしてきたのだが…実際に見てみると、発掘以来数年を経て堀底に土が溜まってしまい、畝はほとんど見分けがつかなくなってしまっていた。ネット上で公開されている写真によれば、数年前までは明瞭に保存されていただけに、無念極まりない話である。ただし見方を変えれば、城などというものは絶えざる補修作業がなければ保ち得ないのだ、ということの証明にもなりそうだ。畝堀の溝掃除に駆り出されて、ぶつぶつ言いながら作業をしていた昔の人の姿が浮かんでくるような。

 金杉口方面の遺構はこのくらいだが、折角なのでもう少し足を延ばして大勝院へ。これは高城氏によって、祈願寺として当地に招かれた由緒ある寺院で、「遠矢山大勝院」という珍しい寺名が武将の庇護の歴史を物語っている。往時に比べると寺の規模はかなり縮小しているらしいが、それでも広壮な境内に樹齢500年のイチョウ、700年のヤマザクラなどがそびえる、雰囲気のあるお寺さんだ。 
 また、寺の由緒を開設した説明板には、宅地化の推進により小金城(大谷口城)の遺構を「破壊」した不動産会社が名指しされており、地域の開発にあたって当寺との間に何らかのいきさつがあったことをうかがわせる。詳しい事情は分からないから何とも言えないが、やはり創建当初から小金城を守護してきた存在として、城の運命には特別な思いがあったのかもしれない。

 帰りはまた馬橋経由だったのだが、折角なので万満寺に寄っていくことにした。馬橋駅から徒歩5分程度、鎌倉時代からの由緒を持つ古刹である。天文年間には小金城主高城氏が京都の大徳寺からこの寺のために僧を招いたこともあるという。夕闇迫る中、風情のある伽藍を歩くのは気持ちのよいものだ。寺内では何といっても山門の仁王像が素晴らしいが、軒にしつらえられた獅子の木彫りなどもユーモラスで独特の表情をしている。
 寄り道ついでに、万満寺の隣にある王子神社にも参ってきた。こちらは特に予備知識もなく、本当にふらりと立ち寄っただけなのだが、境内の一角に並ぶ庚申塔が秀逸であった。青面金剛も踏みつけられている魔物も三猿も全てが味わい深く、見入ってしまった。有名なお堂や仏像も勿論よいものだが、こういう何気ない石像で「掘り出し物」があるとやった!という感じですね。ただ単に見て楽しいだけでなく、当時の人々の世界観や信仰心について考えるきっかけにもなり、一粒で二度おいしい。こういうところが神社仏閣の(本来とは別の意味での)ありがたさではないかと思う。

小金城アルバム 
http://www.toride.com/~roshiashi/koganephoto.html

小金城主・高城氏の歴史

05. 五月晴郎 2011年10月15日 15:39:56: ulZUCBWYQe7Lk : bxtHsuzmZA
小金城(大谷口城・松戸市大谷口)
(小金城鳥瞰図)


小金城はこの地の豪族で原氏の家老であった高城氏の居城で、戦国時代の下総地方を代表する巨城であった。 (略)

 高城胤吉は享禄3年(1530)から7年の歳月をかけてこの城を築いたという。比高20mほどの台地を空堀によって堀切り、郭を複雑に配置している。残念ながら、そのほとんどは現在では宅地化されてしまい、馬場曲輪の一部のみが「大谷口歴史公園」としてわずかに整備されている。小金城の落成の式典では、佐倉城主の千葉昌胤も訪れ盛大な宴が張られたという。(略)

-------------------------------------

「鎌倉時代に金先禅師によって創建されたと伝わる一月寺。元々は青梅の鈴法寺と共に関東地方の普化宗諸派の本山で、いわゆる時代劇で馴染み深い虚無僧の拠点といった寺であった。明治4年(1871年)太政官布告によって普化宗は廃止となり一月寺は廃寺となったが、昭和30年代に日蓮正宗に改宗し、更に”いちげつでら”から”いちがつじ”に読みを変えて再興された。」

「天保9年(1838年)小金宿の商家に生を受けた竹内廉之助とその弟哲次郎は、尊皇攘夷の急先鋒となった水戸天狗党の挙兵に参加。哲次郎は敵対する幕府軍によって負傷し、24歳の若さで自害して最期を遂げるが、廉之助は幕府に捕らわれの身となって土浦に投獄される。後に釈放され謹慎の身となるが、大政奉還によって世の中が大きく動き始めると、後の赤報隊隊長となる相楽総三と運命の出会いを果たして赤報隊に参加する。赤報隊については以前の記事に詳しく書いたので参照してほしいのだが、竹内廉之助とは後の金原忠蔵のことだったのだ。追分戦争で致命傷を負い非業の死を遂げた金原忠蔵が小金宿の出身だったとは…この事実を知った時にはちょっと身震いがしたよ。」

06. 五月晴郎 2011年10月15日 15:58:54: ulZUCBWYQe7Lk : bxtHsuzmZA
>≫3≫≫4 >>5
は、フォロー元記事の中の
「小沢一郎の知る闇1/2創価発祥の地:風魔一族の系譜」
「小沢一郎の知る闇2/2創価発祥の地:風魔一族の系譜 」

を聴きながら読むと(フォロー元記事も、投稿記事も)いいですかね。

07. 五月晴郎 2011年10月15日 18:33:12: ulZUCBWYQe7Lk : bxtHsuzmZA
金竜山一月寺

鎌倉時代の正嘉年間に創造され開基は金先(●先)居士である。
居士は正嘉2年(1258)10月13日入寂。
普化宗旧記一月寺の項によれば、次の如し。
開山は金先古山禅師也。金先と言うは人皇88代聖帝深草院の治天に建長の頃、紀州由良の法灯国師御入宋して帰朝の時普化禅師の四居士宝伏、国佐、理正、僧恕同船して我朝に至る宝伏居士暫く山城宇治の辺に居をしめ普化の禅を融通せんと庵室を結んで行住座臥の法容偏に普化の遺風を慕う居士専ら尺八を吹いて始祖振鐸の話に準拠す。
時に中秋の夜川辺にて一曲を催す。
其夜万里雲なく月光河水を照すこと金竜波におどるに似たり、爰において頓に水辺を起し一端をそめて一天清光満地金竜波と言句を設けたり其頃頭陀あり。
金先と名付く、宝伏の法莚につらなり倶に尺八を奏し行脚修行して所々を経巡り東に下り下総国小金の宿に止り光陰をすぎしむ。
然るに宝伏居士年を経て卒しぬ。
金先其法統をついで妙音また奇なり、聞く五感六欲の昔迷を照し本来無一物の順縁を結ふもの多し、髪に一宇を造立し宝伏の遣意に任て山を金竜山と号し寺を一月寺と号す。
此時の執権北条平経時、金先の碩徳を尊んで造立の大且那として之を経営し金竜山一月寺と言う。此の開山則金先禅師なり。
金先を以て菰僧の基とす。
「尺八筆記」には其後宝伏卒し金先一宇を造立し、宝伏の遺言により山を、金竜山と号し月は一翰万境を照す、普化の異名を取って一月寺と号す、普化を祖として益々尺八を吹き宝伏の素志を伝えん事を欲す。
正嘉二戊牛の春三月勅諚によって参内し尺八を奏しければ、天機叡慮ありて精舎、地並に禅師号を賜ひあまつさえ宸翰を染められ金竜山一月寺とす。
同年10月13日金先寂す。其徒金先の愈をつぎ二世の住職となる。
二世鼓岩了波のとき北条長時朝臣随喜し給ひ、新に堂塔を造営し霊仏庄園を寄附し給う。
また亀山天皇の文応元年(1260)三浦の一族戸部某其領地を没取され、家臣数十人と共に一月寺にかくれ行脚修行のうち、春が巡って北条時頼に召出されて旧主にかえった。
また文明年間(1470~1486)50世住職覚祐の時代北条家没落で、堂中破損し寺領没落されたのを51世住職松滴と、二代の住職を助けて寺を再建したのが、狂僧小烏坊と言われる。
小烏は身長6尺3寸頭髪6尺6寸に及んだと言い、「文明の頃の人、頭髪は身に等し道を行く事、甚だ早く或る時箱根権現にて尺八を吹きしかば山谷鳴動す、吹終って八尺有余となり光明を放って去るといえり時人、多門天皇の化身なりと言う」一月寺の寺歴は同寺が慶応年間に焼けた為、殆ど不明であるが開山以来第115世は長田逸平と言い、その代で明治4年の廃宗となったが後にその娘婿が第116世として、一月秀興と名乗りその息正空117世をっいだ後また正空の兄がその跡をっいだが後逐には、寺は創価学会に売渡された。
また天文年中小金城落城して、一月寺破損したので大谷口から風早庄に移った。
この時豊臣秀吉が寺院保護の為「一銭切の制本山を下附した(万願寺に現存。
当時は方願寺の支配下にあった)之は矢張り明暗寺が興国寺の未寺である如く一月寺も万願寺の末寺となり指示を仰ぎ住職の任免をされていた。
一月寺最後の住織は宵海蚊竜で天保13年寂以後は住職なし。
------------------------------------------------------------------
「罪を犯した武士が普化宗の僧となれば、刑をまぬがれ保護されたことから、江戸時代中期以降には、遊蕩無頼の徒が虚無僧姿になって横行するようになり、幕府は虚無僧を規制するようになった。」
---------------------------------------------------------------
一月寺と虚無僧の暮らし

松戸には昔すこし風変わりなお寺があったのを知ってますか?今回はそんなお寺と住民のお話です。

●どこからでも来い!

江戸時代の小金町には、普化宗金竜山一月寺という大変風変わりなお寺がありました。別名虚無僧寺といわれたこのお寺は、お経を読むものもなく、仏事らしいことはさっぱり、カラスがカーカー朝から鳴いているだけというお寺だったそうです。ただ虚無僧といわれる武士の平服に紺黒五条の袈裟をかけ、深編み笠をかぶり、尺八を吹きながら行脚、托鉢をする半俗半僧、有髪の人々がどこからともなく集まり、そしてまた去ってゆくという、日本昔ばなしにでてきそうな感じだったそうです。

●もしかして迷惑寺?

一月寺は全国の普化寺院7派67箇所の中心的な位置にいました。お寺の住職は虚無僧と違って、普化宗門の宗主なので頭を丸め、香衣を着ることもありました。しかし前述のように仏事を行なわなく、経典の代わりに尺八を吹いている為、寺院活動での収入はありませんでした。主な収入は房総3ヶ国各村々の喜捨でした。それも、みすぼらしい虚無僧が托鉢に来ないように、という迷惑御免料という形で喜捨されたようで、昔の虚無僧の社会的な位置が低かったのが分かります。

現在の一月寺

虚無僧寺で現存しているのは全国で一月寺だけで、由緒ある寺として松戸市小金に今でも住宅地にまぎれてひっそり建っています。

虚無僧とはなんぞや

唐代の風狂僧鎮州普化和尚の生き方にならい、世間は虚仮で実体がないと観じ、心を虚無にし、尺八を法器とし、尺八を吹くことで禅の奥義を窮めんとしたことから名付けられた。実際には、禅僧としての活動はせず、尺八を吹いて金銭を乞う遊芸人にすぎない者や、自由に旅をできる特権を生かし、浪人や無頼の徒が身を隠す手段に利用した。ぼろをまとって物乞いをしたので暮露や、こも僧ともいわれた。のちには美服を着用し、ビロードに金糸縫取りの尺八袋をもつ伊達姿の虚無僧も現れたという。「徒然草」にも言及されており、今もってテレビの時代劇や、街頭で大人気のキャラクターといえるでしょう。
----------------------------------------------------------

起源と歴史

元々「一月寺(いちげつでら)」は、武蔵野国新町の鈴法寺と共に普化宗の触頭として関東総本山という地位にあった。伝承では正嘉年間(1257年 - 1259年)に金先古山禅師によって創建されたと伝わる。徳川幕府の庇護もあり、隆盛を極めた。

『虚無僧略縁記』(年代不明・星咬輝蔵)には以下のような記載がある。

「宗旨を元祖とたて普化禅宗と申、然るに其弟子虚無僧金山金松覚て常に、どうしやうと言う、竹壱尺八寸(原註歩)穴の数12ある笛を吹、是尺八の初也、元祖有時船遊びしたまえば俄に霧ぶり四方かすみ、船頭是を悲めば普化和尚彼宙を取て観音経を祈させたまへぱ、霧はるゝと言う。真後八百年以前に日本の元祖法灯国師和尚比伊奈と云俗弟子を連れて入唐したまい、普化和尚に尊拝す。比伊奈は金山金松の笛を伝授し、後和尚を伴ぴ日本に帰り、比伊奈居士は諸国行脚を志し下総国にて清浄の地を求め小金といぶ所に金龍山一月寺と申寺を建立す(後略)」

ところが、明治政府の方針により、幕府と縁の深い普化宗自体を廃止されたので、以降僧侶は僧侶資格を失い、近くの万満寺の助力を得ながら在家が管理する形となっていた。

昭和30年代(1955年 - 1964年)、妙縁寺総代(後に法華講連合会第三代委員長)であった佐藤悦三郎の仲立ちにより、日蓮正宗に改宗、「いちがつじ」と読みを変更して現在に至る。

ちなみに普化宗時代の寺宝は松戸市に寄贈されており、現在松戸市立博物館などで見ることが出来る。
---------------------------------------------------------------------
08. 五月晴郎 2011年10月15日 18:53:11: ulZUCBWYQe7Lk : bxtHsuzmZA
鉢屋衆は八切止夫がいう契丹系日本原住民と重なるような印象ですね。江戸期の大名では加賀の前田とか。
フォロー元記事中の橘孝三郎や立花隆の「橘」氏は、契丹系という指摘を八切止夫がしています。
上記YouTube内の「小金城を支配した一族」は、製鉄集団と関わりが深い印象が強い。

ーーーーーーーーーーーー引用終わり





[PR]
# by rakusen21 | 2015-03-20 00:05 | 歴史の真実 | Comments(0)

天皇のデスノート~オウム、福島原発爆発などの犯人に迫ると超巨大カルト教団の影が!


順ちゃん和枝のすっぴんトーク 2015年3月18日(水)

 ひょっとしたことから、笹川平和財団(CIAやくざ日本財団)が、安倍首相らを動かし、フィリピンなど東南アジアの少数民族支援やテロ事件などにも加担していたことがわかってきた。それは元々、CIAのスパイとして岸信介らA級戦犯が解放されてからの戦後の話だと思っていた。
e0069900_20440963.jpg
 ところが実は太平洋戦争自体が昭和天皇が自分の野望を実現させるために仕組み、戦争ゲームに負けそうになると、陸軍に責任転嫁して、近衛文麿など真実を知る人達を暗殺した事がわかってきた。

一部引用 ーーー
◎近衛文麿は服毒自殺ではなく薬殺された。
◎指令を出したの吉田茂と昭和天皇である。
◎近衛文麿は出頭してすべてを話す決意を固めていた。
◎近衛家は篤麿、文麿、文隆の三代に渡って暗殺されている。
◎近衛文麿を破滅させるシナリオは、15年戦争ぐるみの壮大な
 ものである。
◎近衛文麿が首相になった直後に、盧溝橋事件を起こす計画だった。
◎近衛文麿が首班の時に、日中全面戦争の拡大化を図るシナリオだった。
◎近衛文麿が首班の時に、三国同盟締結、大政翼賛会結成、
 汪兆銘傀儡政権、武力発動の帝国要綱が作成決定されるシナリオだった。
◎近衛文麿に関する史料はほとんど全て改竄されている。
◎『近衛上奏文』も『近衛・マッカーサー対談』の外務省史料も、
 『近衛文麿の手記』も『失われた政治』も捏造である。
 近衛文麿が創設した近衛家の史料を収めた陽明文庫も盗掘されて
 いるだろう。
◎近衛文麿による画期的な新憲法起草案は、御用学者によって
 わざと曲解されている。
◎藤原菊と山本ヌイの手記は捏造である。
◎近衛文隆は吉田茂の指令によってソ連に抑留され、
 日ソ国交回復と同時に薬殺された。
◎鳩山一郎は、吉田茂に動かされていた駒に過ぎない。
◎鳩山一郎による日ソ国交回復も、吉田茂のシナリオである。
◎近衛文麿暗殺の主役は松本重治と牛場友彦、共演者は風見章、岸道三、
 後藤隆之助、山本有三。友情出演G2チャールズ・ウイロビー、
 ソ連代表部テレビヤンコ。
◎野坂参三は吉田茂と共謀していない。(吉田茂が嫌い)
◎野坂参三は独自のルートで昭和天皇のために尽くした。
◎尾崎秀実が一番信頼していたのは野坂参三である。
◎野坂参三は田布施村王朝に恩義を感じ、昭和天皇のために尾崎秀実を
 使い捨てにした。
伊藤博文、吉田茂、昭和天皇は近代史上不世出の三悪人である。
◎防衛庁に職員として潜入していた秦のように、田布施村王朝の草が
 逆情報活動している。
山本五十六と近衛文麿の暗殺は連動している。二人は2・26事件直後に、吉田茂と昭和天皇のデス・ノートに記名されたと思われる。近衛抹殺指令には朝日新聞の緒方竹虎と嘉治隆、NHK、白洲次郎、松本重治、牛場友彦、岸道三、風間章、後藤隆之介、山本有三らは、全員がグルになって協力している。近衛を追い詰めた上で『自殺する』という風評を流し、近衛が周囲の制止を振り切り我意を通して『自殺した』、というシナリオを演じている。近衛の家族を除く全員が共犯者、謂わばアガサ・クリステイ―の『オリエント急行殺人事件』状態である。中でも主役を演じた松本重治は、晩年になってしつこいくらいに偽証している。
・・・・・・
山本五十六と近衛父子抹殺工作の総指揮を執った吉田茂は、伊藤博文の再来である。伊藤博文は、孝明天皇・睦仁父子を抹殺しクーデターを成就させた、田布施王朝の始祖である。貧困のどん底にあった田布施村ゲットーの人々は、解放されるやいなや保守反動に突っ走った。クーデターは山間の不毛な地に押し込められていた彼らを、広大で肥沃な関東平野にある将軍の居城へといざなった。大室虎之祐は千代田城のあまりの広さと豪華さに驚き、歓声を上げて走り回った。彼らは新しいゲットーに日本の粋を集め、これでもかと豪華絢爛な装飾を施した。それはお召列車の過剰装飾にまで及んだ。
ムシロ一枚で外気を防ぐようなどん底の生家に生まれ育った人々は、権力の座に座るとある者は個人財閥となり、ある者は広大な別邸を複数所有した。彼らは広大な大名屋敷をより取り見取りで物色した。それらは華族令によって伯爵邸や男爵邸と呼ばれるようになった。そして彼らは食い詰めた武士や元旗本の見目良い(きれいな)娘たちを、千代田城に連れてきて慰み者にした。
大室寅之祐の息子の大正天皇の妃がここかから誕生した貞明皇后この『千代田遊郭』に騙されて連れて来られ、ひどい目に遭わされて以来、田布施村ゲットーを不倶戴天の敵として憎悪した。彼女は西園寺八郎に無体なことをされたときに悟った。こいつらにとって自分は道具なのだ。もうこいつらをやるか、自分がやられるかそのどちらかしかない。そして彼女は第二の戊辰戦争を画策する。結果、敗れた貞明皇后は、戦後間もなく亡くなっている。昭和天皇のデス・ノートに、『謀反人の貞明皇后(朱貞明)は戦後に心臓麻痺で急逝する』と書かれていたのである。『東郷(朴)茂徳は秘密財産隠匿工作の後、獄中死』とも書かれていただろう。
ーーー引用終わり
 すなわち世界から日本の役割を俯瞰して見ると、天皇は明治維新以来、日本人を金融奴隷化して、その富を世界の金融マフィアらにも一部分配し、天皇家自体も日本銀行や日本赤十字、日本郵船を通じて海外の銀行に不正蓄財し、私腹を肥やしてきたのだった。

 それでは、オウムや福島原発のイスラエルによる爆破の要因を作ったのは誰だったのか?
 島津論文によると、安倍晋三首相の犯罪が書かれていたが、安倍首相や自民党右派や創価学会を操っていたのは笹川平和財団(CIAやくざ日本財団)であることがわかっている。

と、いう事は、戦前の体制はほとんどそのまま形を変えて残されている事より、実行犯はそのまま笹川平和財団(日本財団)が行い、その指令は天皇またはその周辺から発せられていることがわかってきたのだ。




[PR]
# by rakusen21 | 2015-03-18 20:53 | この世の闇に巣食う者たち | Comments(0)

日本財団(統一教会)に操られる国会議員や文化人

 下記の大元のソースが文字化けしてたので
ミラーサイトがわりに転載し、
その他、関連する情報をメモとしても追加しました。
 なお、この下記のサイトでも


かなり具体的に書いてありましたね。

 ただ、気をつけるべきは、戦後の支配体制の構造は戦前と結局、変わっていない、と言う事です。単に敗戦でアメリカが日本支配のトップに出てきた、って事だけです。

よって、戦後の下記の構図を忘れないように!
e0069900_20440963.jpg
 さらに天皇閨閥の組織(日銀など)はアメリカやヨーロッパをお金で動かす金融マフィアらとも繋がっていることに注意しないといけません。

 なお結果的に、このページは
CIAやくざ日本財団」とCIAが操る統一教会、そこの言いなりになる政治家や文化人の一覧みたいな形になってしまった
 (^^;

 へー、週刊誌なども以前は色々、貴重な情報を暴露していたんだ!


■現職国会議員128人の
「勝共連合・統一教会」関係度リスト

(『週刊現代』99.2.27号から)
秘書=勝共連合から送り込まれた統一教会員秘書の人数
①=「勝共推進議員」(1990年4月1日現在)
②=「1988年勝共推進議員教育報告書」(1988年12月19日現在)
③=「1988年総支部活動報告所」(1988年12月15日現在)
④=「支部結成」、貢献ランク(A~Dで、Aの方が高い)
⑤=「安保セミナー参加者」
⑥=「勝共推進議員の集い(3月6日)出席者結果」
⑦=「世界平和連合」設立発起人
⑧=「旧ソ連共産党からの財政支援疑惑に関する請願紹介議員」
勝共推進議員名簿(衆議院編)
議員名
備考編集部からの取材に対する回答
町村信孝
(自民・前文相)
         (11の質問について、すべて否定)なぜ、こ
のような質問をされるのか理解に苦しむ
佐藤孝行
(自民・元総務庁長官)
    今回の質問には回答できません(電話にて回
答)
中川昭一
(自民・農水相)
   ノーコメント(電話にて回答)
鈴木宗男
(自民・元国土・沖縄庁長官)
         国際勝共連合から選挙応援を受けたことはあ
るが、セミナー等は出席せず(電話にて回答)
武部 勤
(自民・党副幹事長)
    国会議員になる以前に韓国に行き、教義につ
いて聞いたことはあるが、それだけ(電話)
佐藤静雄
(自民・元建設政務次官)
     故渡辺美智雄先生の勧めで、集会には出たが、
セミナーは出ず。秘書は脱会者の雇用経験有
鳩山由紀夫
(民主・党幹事長代理)
        実態がわからず集会等に出たことはあるかも。「世
界平和連合」設立発起人の件も同様。(電話)
島津雄二
(自民・元厚相)
       つきあいも接点もありません。なぜ、名簿に
名前が出ているのか、わからない(電話)
鈴木俊一
(自民・元厚生政務次官)
          選挙時の集会に国際勝共連合の人が出入りしていたこと
があるが、それだけ。非常に迷惑(本人が電話回答)
菅原喜重郎
(自由)
      5~6年前、自民・民社の先生方と一緒に集
会には出席。教義セミナーは案内だけと記憶
玉澤徳一郎
(自民・元防衛庁長官)
       選挙で応援した他の議員が国際勝共連合と関
係があるので、間違われたのでは(電話にて)
伊藤宗一郎
(無・衆議院議長)
     代議士本人と連絡が取れないので、回答でき
ません(電話にて回答)
三塚 博
(自民・元蔵相)
   (再三の取材要請にもかかわらず無回答)
愛知和男
(自民・元防衛庁長官)
     事務所サイドで知りうる限り、国際勝共連合
とは関係ありません(電話にて回答)
佐藤敬夫
(民主・元運輸政務次官)
   過去はともかく、いまはまったく関係あり
ません(電話にて回答)
御法川英文
(自民・元国土政務次官)
          勝共推進議員ではない。名刺広告は出したかもし
れないが、実態を知らなかったため(電話)
鹿野道彦
(民主・元農水相)
     自民党時代は選挙応援等で関係あり。セミナーに
出たかもしれないが、いまは無関係(電話)
渡部恒三
(無・衆議院副議長)
         衆議院副議長の立場上、回答しません(電話
にて回答)
坂本剛二
(無所属)
      議員になる以前から派閥(三塚派)の関係でつき
あいがあったのは事実だが、表面上のもの(電話)
中山利生
(自民・元防衛庁長官)
   霊感商法のことなど何も知らず、「反共」に賛同。
セミナー等に参加したが、誓約書は書かず(電話)
額賀福志郎
(自民・前防衛庁長官)
     あまり深くは関係ない(電話にて回答)
丹波雄哉
(自民・党政調会長代理)
          名前が出ること自体、迷惑。個別の質問への
回答は控えたい(電話にて回答)
船田 元
(自民・元経企庁長官)
       コメントは遠慮させていただきたい(電話に
て回答)
神田 厚
(民主・元防衛庁長官)
      訪韓のついでに教義セミナーは受けたが、誓約書
は出さず。集会は党の政策説明のため出席
尾身幸次
(自民・前経企庁長官)
     一度、教義について話を聞いたことはあるが、共
感できず、その後は無関係。誓約書も書かず
中曽根康弘
(自民・元首相)
      統一グルー
プに貢献
(再三の取材要請にもかかわらず無回答)
議員名
備考編集部からの取材に対する回答
小渕恵三
(自民・首相)
        (統一教会系新聞といわれる)『世界日報』は購
読しているが、そのせいかも(電話にて回答)
小坂憲次
(自民)
        勝共連合から会合の誘いは受けるが、つきあって
いない。セミナー出席の記憶もない(電話回答)
羽田 孜
(民主・元首相)
    セミナー等は(秘書が)代理出席したのでは
ないか(電話にて回答)
村井 仁
(自民・元大蔵政務次官)
    勝共への
推薦状
いまはつきあいありません。そういうことでご
了承いただきたい(電話にて回答)
高島 修
(自民・元経企庁長官)
      某議員の紹介で勝共連合から選挙応援を受け
た関係で教義セミナーは受講。集会は出ず
桜井 新
(自民・元環境庁長官)
       勝共連合の女性スタッフの話を聞いてやった
ことはある。集会には出席したかどうか・・・
中尾栄一
(自民・元建設相)
       15~16年前に勝共連合の会合に一度、出たこ
とはあるが、文鮮明氏とは面識なし
与謝野馨
(自民・通産相)
 統一グルー
プに貢献
閣僚を拝命している関係で、すべて(アンケ
ート等は)お断りしている(電話にて回答)
越智通雄
(自民・元経企庁長官)
 勝共支部
・顧問
いっさいノーコメント(電話にて回答)
粕谷 茂
(自民・元沖縄・北開庁長官)
      (11の質問について、すべて否定)
高橋一郎
(自民・元経企政務次官)
勝共支部
・顧問
十数年前、地元の支部集会に秘書が数回出席。
勝手に支部顧問の肩書をつけたようだ
小林興起
(自民・元労働政務次官)
      (再三の取材要請にもかかわらず無回答)
柿澤弘治
(自民・元外相)
    (再三の取材要請にもかかわらず無回答)
小澤 潔
(自民・元国土庁長官)
    現在、過去ともいっさい関係ない。誘いはあ
るが、すべて断っている(電話にて回答)
鳩山邦夫
(民主・副代表)
      (11の質問について、すべて否定)
島村宜伸
(自民・前農水相)
    新人時代、声がかかり他の議員と渡韓したが、
セミナーはなかった。集会には参加経験あり
伊藤公介
(自民・元国土庁長官)
     多忙のため回答できません。少なくともここ数
年はいっさい関係ありません(電話にて回答)
石川要三
(自民・元防衛庁長官)
          関係した記憶はまったくなく、セミナー、集
会などにも参加経験はない(電話にて回答)
鈴木恒夫
(自民・元環境政務次官)
         いっさいノーコメント(電話にて回答)
小泉純一郎
(自民・前厚相)
       いっさい関係ありません。東京、地元とも教
会派遣の秘書はいません(電話にて回答)
原田義昭
(自民・前厚相政務次官)
       思い当たる事実がまったくないので、回答す
る気になりません
藤井裕久
(自由・元蔵相)
         (再三の取材要請にもかかわらず無回答)
田中慶秋
(民主・党国対副委長)
      (11の質問について、すべて否定)友人にセ
ミナー会場に連れていかれたが参加せず
亀井善之
(自民・元運輸相)
   (11の質問について、すべて否定)
江口一雄
(自民・元運輸政務次官)
    今回は見合わさせていただきます(電話にて
回答)
石橋一弥
(自民・元文相)
       いっさいノーコメント(電話にて回答)
議員名
備考編集部からの取材に対する回答
松永 光
(自民・元文相)
  統一グルー
プに貢献
20年以上前、反共団体との認識で『推進議員
の集い』に参加経験が1~2回ある
加藤卓二
(自民・元労働政務次官)
       元になっている捜査資料を見ていないので、
回答しようがない
杉山憲夫
(自民・元建設政務次官)
         アンケート取材には、いっさいお答えしませ
安倍基雄
(自由・元文部政務次官)
      過去に付き合いがあったのは事実だが、現在
はいっさいない(電話にて回答)
綿貫民輔
(自民・元建設相)
    十数年前の総選挙で、手伝いたいとの申し出
があり、何度か手伝ってもらったことがある
萩山教嚴
(自民・党副幹事長)
          アンケート取材には、いっさいお答えしませ
長勢甚遠
(自民・党副幹事長)
         多忙のため、回答できません
森 喜朗
(自民・党幹事長)
       アンケート取材には、いっさいお答えしませ
古屋圭司
(自民・元法務政務次官)
        故安倍晋太郎氏の紹介で、セミナー、集会に
参加。初選挙時、雑用係5人を受け入れた
武藤嘉文
(自民・元総務庁長官)
          (11の質問について、すべて否定)約10年前、選
挙応援の申し出があり、2~3人を受け入れた
藤井孝男
(自民・前運輸相)
        先代(参院議員の故・丙午氏)までさかのぼ
って確認したが、いっさい関係ありません
村田敬次郎
(自民・元自治相)
    多忙のため、回答できません
青山 丘
(自由・元自治相)
       統一教会
会員
議員は統一教会会員ではありません(その他
の質問には無回答)
稲垣実男
(自民・元沖縄・北開庁長官)
       いっさい関係ありません(電話にて回答)
伊吹文明
(自民・前労相)
         (11の質問について、すべて否定)
柳本卓治
(自民・前労働政務次官)
          いっさい関係ありません(電話にて回答)
中山正暉
(自民・元郵政相)
         アンケート取材には、いっさいお答えしませ
前田 正
(改ク)
        (再三の取材要請にもかかわらず無回答)
中山太郎
(自民・元外相)
          (11の質問について、すべて否定)
左藤 恵
(無・元法相)
   (11の質問について、すべて否定)統一教会の
発展を応援する活動はしていない
牧野隆守
(自民・元外務政務次官)
       現在、関係はありません(電話にて回答)
石井 一
(民主・元自治相)
     統一グルー
プに貢献
日朝議連会長をしていたこともあり、韓国系
の統一教会とは関係がない(電話回答)
原 健三郎
(自民・元衆議院議長)
          日本人妻
連盟会長
(11の質問について、すべて否定)文鮮明の
悪口を言って選挙妨害された
井上喜一
(自由・元総務政務次官)
         (再三の取材要請にもかかわらず無回答)
中西啓介
(自由・元防衛庁長官)
   統一教会とは無関係でありますし、名前が挙がっ
ていることに当惑しております
奥野誠亮
(自民・元法相)
     教義セミナーには勧誘をうけたが出席しなか
った。「議員の集い」には出席したことがある
議員名
備考編集部からの取材に対する回答
相沢英之
(自民・元経企庁長官)
    (再三の取材要請にもかかわらず無回答)
細田博之
(自民・元経企庁政務次官)
       アンケート取材にはいっさいお答えしていま
せん(電話回答)
竹下 登
(自民・元首相)
         統一教会とはまったく関係がない(電話回答)
平沼赳夫
(自民・元運輸相)
  (再三の取材要請にもかかわらず無回答)
橋本龍太郎
(自民・前首相)
       (11の質問についてすべて否定)
加藤六月
(自由・元農相)
        統一教会、勝共連合とは一切関わりをもっていな
い。名刺広告を出したこともない(電話回答)
栗屋敏信
(無所属)
   アンケート取材にはいっさいお答えしていま
せん(電話回答)
谷川和穂
(自民・元法相)
     防衛庁長官時代、選挙応援にきてくれたので
秘書の肩書を与えた(11の質問は否定)
池田行彦
(自民・元外相)
          (11の質問についてすべて否定)統一教会と
も勝共連合とも一切関係がない(電話回答)
亀井静香
(自民・元建設相)
    アンケート取材には、いっさいお答えしてお
りません(電話回答)
中川秀直
(自民・元科技庁長官)
        (再三の取材要請にもかかわらず無回答)
河村建夫
(自民・元法務政務次官)
          「勝共推進議員」とはまったく関係ありま
せん
高村正彦
(自民・外相)
       弁護士としての関係がかつてあったが、今は
何の関係もない(FAXによる本人回答)
木村義雄
(自民・元厚生政務次官)
   夫人がアジア
婦人連合会員
回答できない。理由も答えられない(電話に
て回答)
大野功統
(自民・元郵政政務次官)
          統一教会とはいっさい関係がありません。(電
話にて回答)
関谷勝嗣
(自民・建設相・国土庁長官)
      原理セミナーの誘いを受けおかしいと思い、
断った。「議員の集い」には出席した
越智伊平
(自民・元農水相)
         勝共推進議員とは、以前にも現在も一切関係
がない
山崎 拓
(自民・元建設相)
         統一教会との関係は一切ない。「勝共推進議員」
も知らない(11の質問についてすべて否定)
麻生太郎
(自民・元経企庁長官)
     (統一教会との関係についてはすべて否定)
古賀一成
(民主・元経企庁政務次官)
      (再三の取材要請にもかかわらず無回答)
古賀正浩
(自民・元通産政務次官)
         (11の質問についてすべて否定)統一教会に
ついては何も知らない
古賀 誠
(自民・元運輸相)
          統一教会とは全く関係がない。名前が出るこ
とが心外である(電話回答)
目見庄三郎
(自民・前郵政相)
  (再三の取材要請にもかかわらず無回答)
坂井隆憲
(自民・元労働政務次官)
         「勝共推進議員」の会合に出席した記憶はな
い(11の質問についてすべて否定)
久間章生
(自民・前防衛庁長官)
          (再三の取材要請にもかかわらず無回答)
虎島和夫
(自民・党政調副会長)
     宗教問題に関しては、回答を控えさせていた
だきます
議員名
備考編集部からの取材に対する回答
松岡利勝
(自民・元農水政務次官)
   統一グルー
プに貢献
この件に関して、こちらから回答することは
一切ありません(電話にて回答)
園田博之
(無・元官房副長官)
     先輩議員の紹介で子どもの権利条約の陳情に来
たのが最後で、以降いっさい関係がありません
東家嘉幸
(自民・元国土庁長官)
         アンケート取材には、いっさいお答えしませ
畑英次郎
(民主・党副代表)
      (11の質問について、すべて否定)
衛藤征士郎
(自民・元防衛庁長官)
   セミナー受講、集会参加経験あり。アルバイ
トとして雇ったが、意に沿わず解雇した
中山成彬
(自民・元文部政務次官)
    以前、反共の意味で世界平和連合に関係した
が、今は一切関係ない(電話にて回答)
江藤隆美
(自民・元運輸相)
        いっさい関係ありません(電話にて回答)
堀之内久男
(自民・元郵政相)
       (11の質問について、すべて否定)
保岡興治
(自民・元大蔵政務次官)
        (再三の取材要請にもかかわらず無回答)
仲村正治
(自民・元沖縄開発政務次官)
          統一教会であれ、特定の団体に関するアンケ
ートには、お答えしません(電話にて回答)

勝共推進議員名簿(参議院編)
議員名
備考編集部からの取材に対する回答
椎名素夫
(無所属)
          「勝共推進議員」とは、まったく関係があり
ません
岩崎純三
(自民・元総務庁長官)
          統一教会とはいっさい関係がありません(電
話回答)
中曽根弘文
(自民・元通産政務次官)
        (11の質問についてすべて否定)「勝共推進議
員」とはどういうものか知らない
倉田寛之
(自民・元通自治相)
          (再三の取材要請にもかかわらず無回答)
北澤俊美
(民主・元農水政務次官)
          (11の質問についてすべて否定)
石渡清元
(自民・元労働政務次官)
        (再三の取材要請にもかかわらず無回答)
青木幹雄
(自民・参党幹事長)
       当時の事情を知る秘書が辞めたためお答えで
きません(電話回答)
吉村剛太郎
(自民・元郵政政務次官)
         統一教会との関係はまったく身に覚えがあり
ません(電話回答)
吉田之久
(民主)
         「教義セミナー」「議員の集い」には出席した
記憶がある(それ以外は否定)
田名部匡省
(無・元農水相)
      自民党時代に同僚議員は集会に出るなど国際勝共
連合と関係が深かったが、私は関係ない(電話)
梁瀬 進
(民主・元建設政務次官)
          (11の質問についてすべて否定)氏名を勝手
に使われ、大変遺憾
松田岩夫
(無・元文部政務次官)
 食口2人
が秘書
多忙のため、回答できません(電話にて回答)
鴻池祥肇
(自民・元沖開発政務次官)
       「勝共推進議員の集い」に安倍晋太郎氏の紹
介で加入していたが活動はしていない(電話)
月原茂皓
(自由・元郵政政務次官)
    夫人がアジア
婦人連合会員
アンケートにはいっさいお答えしないことに
しています
※警視庁公安部の『勝共推進議員名簿(衆・参)』(93年9月作成)にあった衆参両院議員249人と勝共連合からの派遣秘書43人の名簿をもとに、現職議員128人をリストアップしたもの(所属政党は現在のもの)。
※週刊現代から11項目の質問書を送った回答が右端の「編集部からの取材に対する回答」(但し書きのないものはFAXでの回答。電話による回答は、「本人」とある以外は秘書による)。
※「勝共には『まず秘書として食い込め。食い込んだら議員の秘密を握れ。次に自らが議員になれ』という文鮮明の指示が出ている。このリストにはないが、実は橋本さんにも2人ついています。現在も私設秘書を務める地元・岡山のO氏と東京のY氏が統一教会員です」(元統一教会員・A氏(40歳))という証言もある。
※詳しくは図書館で『週刊現代』をご覧ください。



■『統一運動・統一教会に賛同する人々(日本)』

 統一教会系WEBページ(http://www.chojin.com/person/jp.htm)には誇らしげに各界の人名がリストされている。このリストには各々が表明した統一教会への賛辞も載せられている。載せるのに適切な賛辞を公表していない賛同者はリストされていないだろうから、他にもいるだろう。また、リストされていても、利用しあっている程度の人から、積極的に関与している人まで様々かもしれない。とはいえ、これほど広範に統一教会が日本に食いこんでいることに危機感をもたないとしたら日本人としての『愛国心』がないんじゃないかと思う。

統一教会系WEBページにリストされている人名(2007年3月時点):

岸信介(元首相)
福田赳夫(元首相)
中曽根康弘(元首相、財団法人世界平和研究所会長)
三塚博(元大蔵大臣、元外務大臣、元運輸大臣、元通産大臣)
松下正寿(元立教大総長、Ph.D、弁護士、元参議院議員、「文鮮明・人と思想」著者)
福田信之(元筑波大学長、理学博士、「文鮮明師と金日成主席」著者)
助野健太郎(聖心女子大名誉教授、元キリスト教史学会常任理事、皇后陛下の恩師)
金山政英(元駐韓国大使、元バチカン代理公使、元日韓文化交流協会会長)
鈴木一(元鈴木貫太郎総理秘書官、元出入国管理庁長官、元宮内庁侍従次長)
三原朝雄(元防衛庁長官、元文部大臣、元総理府総務長官)
加藤武徳(元自治大臣、弁護士、剣道範士・全剣連顧問)
相沢英之(元経済企画庁長官、元自民党税制調査会長、弁護士)
江藤隆美(元総務庁長官、元建設大臣、元運輸大臣)
弘津恭輔(元公安調査庁第一部長、元総理府総務副長官、元警察大学校長)
岡嵜格(元東京地検特捜部長、元法務大臣秘書課長、元大阪高検検事長、弁護士)
景山哲夫(元近畿大学長、経済学博士)
郷司浩平(日本生産性本部名誉会長、元経済同友会代表幹事)
西堀栄三郎(元日本山岳会会長、第一次南極越冬隊隊長、理学博士)
小牧久時(フランス国際大名誉教授、農学博士、平和運動家)
清水馨八郎(千葉大名誉教授、理学博士、「世紀のプロジェクト」著者)
安藤豊禄(元小野田セメント社長)
飯田正一(北大名誉教授・医学博士、薬理学専攻)
池田和義(大阪大名誉教授・理学博士、「神と万有と詩の世界」著者)
石橋一弥(元文部大臣・元自民党憲法調査会長)
伊藤行(鹿児島大名誉教授)
井上茂信(外交評論家・元産経新聞ワシントン支局長、「ゴルバチョフと文鮮明師」著者)
井上順理(鳥取大名誉教授、兵庫教育大名誉教授、文学博士、倫理学専攻)
今井勇之進(東北大名誉教授、元金属博物館長、工学博士)
今村和男(元防衛大教授、システム分析学専攻、国際科学振興財団専務理事)
入江通雅(青山学院大名誉教授、国際政治学専攻、元NHKニュース解説担当)
上前行孝(元宮地鐵工所社長、工学博士)
内田一臣(元海上自衛隊幕僚長、元海将、自衛隊援護協会理事長)
植田利喜造(元筑波大教授、理学博士、生物学専攻)
宇野精一(東大名誉教授、文学博士、スパイ防止法制定促進国民会議議長)
榎一雄(東大名誉教授、文学博士、東洋史専攻、元東洋文庫理事長)
扇谷正造(評論家、元「週刊朝日」編集長)
大鹿譲(大阪工大教授、量子力学専攻)
岡田克己(宮城誠真短大名誉教授)
岡田實(元大阪大学長、工学博士、金属工学専攻)
小方二十世(元日本基督教団・鎌倉教会長老)
加藤栄一(筑波大名誉教授、元自治省参事官)
加藤弘(東大名誉教授、工学博士、船舶工学専攻)
亀岡高夫(元農林水産大臣、元建設大臣)
亀川正東(琉球大名誉教授、文学博士、日本ペンクラブ名誉会員)
河部利夫(東京外大名誉教授、東京国際大名誉教授、文学博士)
気賀健三(慶大名誉教授、経済学博士)
北川石松(元環境庁長官、元衆議院外務委員長)
木屋隆安(元時事通信社・社会部長、中外ニュース主筆)
九嶋勝司(元秋田大学長・名誉教授、東北大名誉教授、医学博士)
工藤重忠(元桐蔭女子短大学長、憲法学会常任理事、法学博士)
黒坂富治(富山大名誉教授、音楽家・作曲家)
伍堂輝雄(JAL=日本航空元会長)
小森義峯(元憲法学会理事長、元国士舘大教授、法学博士、伊勢神宮評議員)
小山福松(元中京大学長、商学専攻)
近藤正栄(神奈川大教授、神学・英文学専攻、「神主義への道」著者)
桜井一(上武大元教授、単立シャローム第一公会牧師)
桜田淳子(女優)
佐々保雄(北大名誉教授、理学博士、地質学専攻、「日韓トンネルプロジェクト」監修)
佐藤正二郎(元広島大教授、音楽家・作曲家、元広島交響楽団常任指揮者)
慈雲(宗教法人妙法山貫首、霊能者、画家、スリランカ国立コロンボ大名誉教授)
東海林孝正(九州共立大教授、経営学専攻)
白井浩司(慶大名誉教授、フランス文学専攻)
菅原喜重郎(元衆議院議員、世界平和超宗教超国家連合共同議長)
杉田一次(元陸上自衛隊幕僚長、日本郷友連盟名誉会長、元東久邇宮内閣秘書官)
杉本儀一(元杉本興業会長)
鈴木瞭五郎(元航空総隊司令官、元空将、元川崎重工顧問)
副島宏(元九州学院大教授、航空工学専攻、F1開発者)
田井友季子(作家・日本ペンクラブ会員、「神の代辯者」著者)
高田源清(九大名誉教授、元西日本短大学長、法学博士、法律学専攻)
高田秀二(元共同通信編集主幹、元日本記者クラブ理事長・名誉会員)
高橋磐郎(筑波大名誉教授、数学専攻)
高橋賞(関東学院大名誉教授・元学長、工学博士、機械工学専攻)
高橋正和(国士館大教授、哲学専攻)
竹田五郎(元統合幕僚会議議長、元川崎重工顧問、軍事評論家)
谷藤正三(元北海道開発庁事務次官、元建設省都市局長、日大教授、工学博士)
田丸徳善(東大名誉教授、元日本宗教学会会長)
近松良之(元筑波大教授、養護施設ひかりの子学園園長)
築山治三郎(京都府立大名誉教授)
徳田敦子(バドミントン元世界チャンピョン、「やっぱりこの人が一番」著者)
中島衛(元科学技術庁長官)
中西武雄(東北大名誉教授、農学博士、農芸化学専攻)
中村信一(日本基督和協教会牧師、画家)
那須聖(外交評論家、元毎日新聞ニューヨーク支局長、「牢獄の救世主」著者)
生田目修(元航空自衛隊幕僚長、元伊藤忠エレクトロニクス顧問、ISC顧問)
西俣昭雄(亜細亜大教授)
西山廣宣(曹洞宗大満寺住職)
二宮信親(元月曜評論社社長、元読売新聞社出版局長、元ラジオ日本・常務取締役)
野間繁(明治大名誉教授)
長谷川太郎(福岡工大元学長、山形大名誉教授、工学博士、電波工学専攻)
服部比佐治(元駐ヴァチカン大使、元駐イスラエル大使、元防衛庁参事官)
濱田敏郎(慶大名誉教授、元日本図書館協会理事長)
林健太郎(元東大学長、元参議院議員、元国際留学生協会会長)
林田隆(元昭和炭酸会長)
一松信(京大名誉教授、理学博士、数学専攻)
福尾券一(名古屋工大名誉教授、理学博士、鉱物学専攻)
福見正子(伏見稲荷大社・因島土生教会長)
法眼晋作(元外務省顧問、元国際協力事業団総裁、元国策研究会長)
細川隆一郎(政治評論家、元毎日新聞編集局長)
堀江正夫(元参議院議員、日本郷友連盟会長、英霊にこたえる会会長)
松井七郎(同志社大名誉教授、元ロックフェラー財団特別研究員、労働法専攻)
松金久知(元陸上自衛隊東北方面総監、元日本製鋼所特別顧問)
峯 弘(メノナイト教会牧師、元釧路短大講師、新自然塾塾長)
箕輪登(元郵政大臣、元衆議院安全保障特別委員会委員長、医学博士)
三村勉(日本ハープ音楽振興会理事長)
三村寛子(スーパー・メディテーション指導家、こども環境教育研究所長)
宮内俊之(元伊藤忠商事理事、元アラビア石油副社長)
武藤宗英(身延山久遠寺・報恩閣住職)
武藤正行(国士舘大客員教授、元海軍兵学校教授、元東和大教授、日本思想史専攻)
両角宗晴(信州大名誉教授、工学博士、機械工学専攻)
山口彦之(東大名誉教授、農学博士、世界平和教授アカデミー代表理事)
山崎仁(横浜商科大教授、関東学院大元副学長、元大蔵事務官、流通経済学専攻)
吉江誠一(元陸上自衛隊幕僚長、元国家国務員共済組合連合会・常任理事)
吉田康彦(元国連本部主任広報官、元NHKジュネーヴ支局長、大阪経済法科大教授)
嘉村祐一(元青山学院大教授)
吉本千禎(北大名誉教授、医学博士、医学工学専攻)
リーガル天才(漫才師、漫才協会・第4代会長)
渡辺久義(京大名誉教授、創造デザイン学会代表、英文学・哲学専攻)

■統一教会は米国の政治勢力と深い関係
別冊宝島Real, 070『謀略の昭和裏面史』黒井文太郎[編著](2006年)より:

統一教会は韓国人牧師・文鮮明が昭和29年に創始した新興宗教だが、 昭和36年、韓国で朴正煕がクーデターによって政権を奪取した直後から、 情報機関「韓国中央情報部」(KCIA)と協力関係を結び、その庇護を受けて 勢力を急速に拡大した。
戦後ソ連共産党のアジアでの工作活動に対抗すべく、アメリカでも反共団体やCIAが 中心となって、アジアでの反共ネットワークの構築を画策していた。昭和29年には CIAの肝煎りで「アジア人民反共連盟」(APACL)が結成されていたが、昭和40年に 日韓条約が締結されると、その院外団的勢力として、各国の民間右翼団体による ネットワークの結成が模索された。そこで中心的な役割を果たしたのが、韓国では 統一教会(文鮮名)、日本では笹川良一だった。

統一教会はKCIAと手を結んだ直後から、崔翅翼(日本名・西川勝)という幹部を 日本に送り込み、「原理運動」を開始した。このとき崔に協力したのが笹川だった が、そこにはおそらくKCIAと米CIA、あるいはアメリカの反共団体の協力要請が あったものと推測される。

笹川は昭和38年に統一教会の顧問となり、支援した。統一教会は笹川の影響力に よって政財官界、とくに自民党と警察組織に浸透したといわれる。

一方、「原理研究会」を組織して若者を勧誘した。昭和37年に立正佼成会の幹部の 久保木修己が統一教会に合流し、昭和39年に会長に就任する。

昭和41年に、統一教会がホストを務めて「世界反共連盟」(WACL)が韓国で結成 された。世界中から反共団体が参加したが、それらは事実上、CIAと米反共団体が 組織していたネットワークだった。
e0069900_20440963.jpg
下側の写真がジョン・シングローブ少将(CIA創設メンバー)

昭和40年代半ばから昭和60年頃まで、WACLの会長を務めたのが、極右軍人の ジョン・シングローブ米退役少将(CIA創設メンバーの一人で暗殺や秘密工作専門の特殊戦争統合司令官、後に在韓・国連軍司令官(※実質的なKCIAトップ?)になっている)である。

KCIAの公認で、統一教会が「国際勝共連合」を創設したのは、昭和43年1月だった。 日本での組織化の後ろ盾となったのが、またもや笹川良一と岸信介だった。日本 でも、久保木修己を会長とする国際勝共連合が活動を始める。笹川は名誉会長と なった。

昭和53年に米下院国際関係委員会のレポートで、統一教会=勝共連合とKCIAの 深い関係が暴露された。

日本でも日本共産党が統一教会系の政治家のリストを公表した。当時の福田赳夫 首相をはじめ、現職閣僚から16人、自民党議員155人、新自由クラブ議員4人、 民社党議員5人というリストだった。

関係が深いのは、韓国ロビーに近いか、反共右翼色の強い人脈ということになる。 政治家では岸信介、福田赳夫、椎名悦三郎、中曽根康弘、財界人あるいは右翼や 学者では、これらの政治家の周辺にいる面々ということになる。

(追記;2013/3/4) 文鮮明は2012年9月に死去した。自民党の安倍晋三は葬儀に弔意を見せている[71]。

[PR]
# by rakusen21 | 2015-03-15 13:38 | この世の闇に巣食う者たち | Comments(0)

戦後も変わらない天皇日銀欧米支配:戦争推進と潰された3.11経済戦争布告(政府紙幣発行)

 戦後、米国GHQにより天皇支配は崩壊したように思わせられていたけど、実態は憲法という羊の皮を被せられただけで、本質の狼に変わりはない。
 それは世界人権宣言に違反する憲法1条から8条の天皇規定を見てもすぐわかる。しっかり天皇制は温存されているのだ。ただ「天皇制温存は仕方なかった」と思わせられている。実際、この手法はアジア・アフリカなどの国家紛争の解決でも使われている手法と同じで、虐殺などを指揮した犯罪人をその国の大統領に据え統治させる方法だ。一見、あれっ?、と思われるだろうが、それも紛争解決の方法なのだと言う。

 まさに同じ手法が日本の戦後にも適用されたのだ。

 さらに天皇制礼賛(らいさん)の洗脳がマスコミにより行われているが、
最近、それをひっくり返すような驚愕の真実が次々とわかってきた。

 実は明治維新以来、歴代の天皇は英国から日本の「キリスト王族」トップとしてのガーター勲章を授与されており、英国の陸軍元帥の称号も授与されていたのだ。
e0069900_08580919.jpg
e0069900_08584167.jpg
e0069900_08585597.jpg
e0069900_09053899.jpeg
e0069900_08590553.jpg

現在は右側の真ん中頃に皇室の菊の紋章
 Wikipedia ガーター勲章
e0069900_08592459.jpg

 天皇も連合軍とグルだった!
天皇は単に戦争ゲームのプレイヤーで
資産を増やす事に御執心!
昭和天皇は英国の陸軍元帥だったと官報の記事
 日本国民を焼き殺したのは昭和天皇ですか?」

…1930年英国官報 Emperor of Japan, to be Field-Marshal1942年タイムズ英国陸運省「除名の必要なし」

e0069900_10300309.png
e0069900_10312186.png
 さらには、天皇日銀の私的独占に反対し2009年3月11日に麻生太郎氏が宣言した「政府紙幣発行」日銀に対する宣戦布告)も、直後に行われた選挙により自民党は野党に転落し、実現されることはなかったのだ。

無利子国債・政府紙幣の検討表明=麻生首相「いいことだ」
2009年3月11日


麻生「ボス!いったん、こいつに牙(憲法9条改正)を戻したら、
日米地位協定(SOFA)があるんだから、
自衛隊(JapanSDF)の本当のボスがわかっちゃいますよ!」
e0069900_09303622.jpg
e0069900_09501876.jpg
e0069900_09502689.jpg

どひゃー、諸悪の根源は天皇一族だった!~天皇は莫大な蓄財を行うために、財閥と組んで国民を売りとばし、戦争を仕掛けて国民を殺してきた「昭和天皇&財界の為の戦争 アヘン事業 侵略ビジネス


コレけっこう衝撃なのでぜひ→戦前に最強財閥だった天皇家!天皇家と政治家癒着が凄すぎワロタwww より「昭和天皇 庶民が知らないところで、戦争によって多くの資産を蓄える事に成功しました」「天皇財閥は4大財閥の10倍程度の規模」



 もう、いい加減、日本国民は目覚めた方がいいのではないか、と思う、今日、この頃である。


いまだに天皇制に反対する人達を取り締まる特高がいた!
「天皇差別をなくせ!天皇を解放しよう!天皇に敬語を使わない!」
世界人権宣言 第一条
「すべての人間は、生れながらにして自由であり、
かつ、尊厳と権利とについて平等である」



[PR]
# by rakusen21 | 2015-03-08 09:51 | この世の闇に巣食う者たち | Comments(0)

遂に発見!天皇の出自=「百済王氏の氏寺だった百済寺を訪れる」引用(ミラーページ含む)

鹿島昇氏の「日本史のタブーに挑んだ男」 や、さらに詳しくは「日本侵略興亡史」などの書籍からもわかるように、
e0069900_18190603.jpg
天皇の歴史は「百済・高句麗・新羅」の朝鮮史を組み合わせたもので、氏素性は百済の王家になった一族。神武天皇は元はエビスと呼ばれた殷人(シュメール人)の扶余族でタケミカズチとも呼ばれ、朝鮮百済を経由し、九州南倭を滅ぼし、博多に伊都国を建国した。神武天皇の妻が卑弥呼で、卑弥呼の実家はユダヤ系亡命者の公孫氏で神武天皇が亡くなった後は、宮崎県西都市にある日向・西都原に都を移し、倭の王国連合を統治した。
e0069900_18052657.jpg
 なお蛇足ながら、「藤原鎌足」は捏造された人物である。白村江の戦いで勝利した新羅の大将軍・金庚信(ゆしん)と、唐に全面降伏し服従した百済近衛の将軍・郭務悰(かくむそう)を合成した人物である。
畿内の秦王国に新しく「日本」を作り、その内政に参与した。中臣氏とは伽耶国の古い家来(遺臣)の者たちである。
e0069900_22524720.jpg
 私もこの西都原古墳も調べたが、コノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫)やその父親のオオヤマズミの命(大山祇命)など古事記にゆかりのお墓や古墳が数多く点在していた。
 西都原古墳の鬼の窟古墳(鬼のいわや古墳)
(ただ、よい子はまねしないでネ!)

 なお九州国立歴史博物館で百済展をやっていたが、


肝心の「天皇の起源」などの事を隠しており、百済の里や西都原古墳などにふれていなかった。


そこで、その旨を批判するアンケートを投函しておいた。



 すると後日、九州国立歴史博物館の人から電話で連絡をいただき、「本来の百済展では最もハッキリ、百済の関係がわかる、大阪府牧方市にある百済寺の関連資料を展示すべきだった」と言っていた。

 そこで百済寺に関する資料として、下記のページを見つけたものの、ちょっと著者のHPの該当するページが読みにくくて困ったので、下記にミラーページとして残しておきます。このページでポイントは最後の部分で、
百済王一族が星辰信仰を持っていたことに着目され、四神や星宿が描かれた壁画古墳は「宇宙王」の墓であり、倭国に渡来した百済王家の一族の墓こそふさわしいとされる。そして、百済王禅広を高松塚古墳、息子の昌成をキトラ古墳の被葬者と推定しておられる。

作者のページのソースはここ
普通に見えるようになったら、このページも削除します。

より


橿原日記 平成18年1月15日

百済王くだらのこにきし氏の氏寺だった百済寺跡くだらじあとを訪れる


特別史跡・百済寺跡
特別史跡・百済寺跡に建つ碑 (2006/01/15 撮影)


メセナひらかた
メセナひらかた(枚方勤労者総合福祉センター)
阪電車の「枚方市」駅北口から徒歩5分、天野川が淀川に流れ込む手前にある「かささぎ橋」の際に枚方勤労者総合福祉センター、通称「メセナひらかた」がある。その6階にある大会議場で、本日の午後2時から「特別史跡百済寺跡整備事業着手記念講演会」が開催された。

日祝戸荘で行われた「あすか塾」に出席して、知人からこの講演会の催しがあることを知らされた。百済寺百済王(くだらのこにきし)氏という渡来系氏族が建立した氏寺である程度の知識しかなく、寺跡を探訪したこともない。講演会では、京都大学大学院文学研究科の上原真人教授が「百済王氏の寺」というタイトルで話されるとのことだった。

氏は、「特別史跡百済寺跡再整備検討委員会」の会長も兼ねておられる。ちょうど良い機会だったので、友人の誘いにのって、講演会に出かけ、ついでに昨年11月に再整備事業に着手したばかりの百済寺跡と、その西隣にある百済王神社(くだらおうじんじゃ)を見学してきた。以下は、そのレポートである。



特別史跡・百済寺跡くだらじあととその横に立つ百済王神社くだらおうじんじゃ

百済寺跡遺構配置と百済王神社
百済寺跡遺構配置と百済王神社
の特別史跡・百済寺跡(くだらじあと)は、枚方市中宮(なかみや)西之町1-60に所在する。京阪電車の「枚方市」駅前からJR津田駅方面行きの京阪バスを利用すれば、5分ほどで「中宮」バス停に着く。バス停からは徒歩3分ほどで、現在は史跡公園として整備された寺跡に立つことができる。

済寺跡は、天野川を見下ろす標高30mの台地の上に位置している。今でこそ、周囲に住宅やビルが建ち並び、見通しはそれほど効かないが、創建当時は眼下の天野川はもちろん、遙か彼方の淀川の先まで見通せた景勝地だったに違いない。その台地に、160メートル四方の広大な寺域を占める寺院が建立された。百済が滅亡した時の最期の国王・義慈王(ぎじおう)の直系で、日本に亡命して百済王氏という姓を賜った渡来系氏族の氏寺とされている。

立したのは、義慈王から数えて4代目の百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)と伝えられている。しかし、これほどの寺院が一朝一夕に建立されたとも思えない。一般には、奈良時代中頃から建てはじめ、七堂伽藍が完成したのは平安時代の初期と考えられている。

東塔跡講堂跡
東塔跡金堂跡
堂、講堂などを中心に東塔と西塔を配する伽藍様式は、一見したところ薬師寺伽藍配置に似ている。だが、薬師寺の場合は中門から延びる回廊は講堂に取り付いているが、百済寺では金堂に取り付いている点が異なる。そのため、新羅の感恩寺との類似が指摘されている。

済寺は、平安時代後期に焼失し、鎌倉時代に一度復興したが、再び焼失した。その後は、莫大な費用を要する再建は、政治的、経済的に不可能だったらしく廃寺となったが、礎石だけはそのまま残っていた。そこで、昭和7年(1932)の7月から11月にかけて礎石の位置を調査して、伽藍の平面的な位置の確認が行われた。非常に良好な状態で伽藍跡が残っていたため、昭和16年(1941)1月に国の史跡に指定された。さらに昭和27年(1952)3月には国の特別史跡に昇格した。

講堂跡食堂跡
講堂跡食堂跡
和40年(1965)になって、国の補助で史跡公園として整備する計画が持ち上がり、5月から7月にかけて再び発掘調査が行われた。その結果、食堂跡や東院跡、東門跡が発見され、また回廊が金堂に取り付いていることも確認された。境内を区画する築地塀も160mに達することも分かった。昭和43年(1948)には、全国初の史跡公園として整備され、跡地には基壇と礎石が復元された。

東回廊跡
東回廊跡
跡公園内は小さな玉砂利が敷き詰められている。樹齢数百年の松の木が方々で静かな木陰を作っている。近江八景を真似て市民が選んだ枚方八景の一つは当地である。「百済寺跡の松風」という名が付けられている。その名のとおり、ベンチに腰かけていると、松の間を抜けてくるさわやかな風が情緒を感じさせてくれる。

和40年(1965)から40年を経て、三度目の発掘調査が昨年11月に着手された。過去に二度調査された史跡が、また発掘調査されるのは珍しい。その理由に興味がわいた。講演された上原真人教授によると、日韓交流のシンボルとして百済寺跡を再整備することになったが、過去の発掘成果に不明な点がいくつか判明した、そのため今一度発掘調査を行なって確認することになったとのことだ。


百済王神社の正面
百済王神社の正面
百済王神社の拝殿
百済王神社の拝殿
済寺跡の西隣に、百済王神(くだらおうかみ)とスサノオノミコト(牛頭天王)を祭神として祭る百済王神社(くだらおうじんじゃ)が鎮座している。室町時代の古文書『百済王霊祠廟由緒』によれば、敬福の叔父にあたる百済王南典の没後、聖武天皇の勅によって百済王氏の祖先と南典の霊を祀るため、百済王神社と百済寺が創建されたと記されている。

平21年(749)、陸奥守だった百済王敬福は、任地の陸奥国(今の茨城県)から産出した黄金900両を大仏の鍍金のために献上し、聖武天皇をいたく喜ばせた。聖武天皇は、敬福の位階を渡来氏族としては最高の従三位に進ませ、河内守に任じた。これを機に、難波に居住していた百済王氏の一族が河内国交野郡中宮(なかみや)、すなわち現在の地に移住してきた。

そらく淀川に近いため水利がよく、台地なので水害の心配もなく、さらに当時の都・平城京へ交通の便も良かったため、一族は中宮を本拠としたのだろう。そして、一族の先祖を祀ったのが、百済王祀廟と百済寺だったのだろう。

済寺は鎌倉時代に焼失し廃寺となった。しかし、百済王神社は百済王氏の没落にもかかわらず中宮一円の氏神として地域住民の崇敬を集めて、現在まで存続してきた。現在の本殿は、江戸時代の文政10年(1828)、奈良春日神社の作り替えのとき、旧社の一棟を譲り受けて移設してきたものである。石の鳥居や、石灯籠、狛犬なども江戸時代中期以降のものだとされている。



百済王氏のルーツをたどる

済王敬福のルーツをたどると、西暦660年に新羅・唐連合軍によって滅亡させられた百済の第31代・義慈王(ぎじおう)に行き着く。唐は義慈王とその妻子を捕虜にして長安に送った。しかし、その年の10月、百済王族の佐平・鬼室福信(きしつふくしん)が、唐の捕虜百余人を倭国に献上して援軍を請い、あわせて百済の王子・豊璋(ほうしょう)の帰還を要請してきた。百済復興の支援を決意した倭国は、翌661年9月、豊璋に織冠を授け、5千の兵をつけて百済に帰還させた。

百済王敬福の略歴
  • 天平10年(738)、正六位上・敬福は陸奥介(むつのすけ)に任ぜられる。この年、初めて敬福の名が『続日本紀』に登場(41歳)
  • 天平11年(739)、従五位下の位を授けられる(42歳)
  • 天平15年(743)、陸奥守(むつのかみ)に栄進する(46歳)
  • 天平勝宝元年(749)2月、敬福が黄金900両を献じる。聖武天皇、はなはだ喜び従三位を授け、宮内卿に任じ、河内守を加える(52歳)
  • 天平勝宝4年(752)4月9日、大仏開眼の法要が営まれ、5月28日、敬福を常陸守に任ぜられる(55歳)
  • 天平宝字3年(759)、敬福、伊予守に転任(62歳)
  • 天平宝字5年(761)、新羅征伐の議が起こると敬福は南海道節度使に任命される(64歳)
  • 天平宝字7年(763)敬福、讃岐守に転任(66歳)
  • 天平宝字8年(764)9月、藤原仲麻呂の乱が起きると、敬福は藤原仲麻呂の支持で即位していた淳仁天皇を外衛大将として幽閉(67歳)
  • 天平神護元年(765)、敬福、刑部卿に任じられる。称徳天皇の紀伊国行幸時には騎馬将軍として警護に当たる。その帰途天皇が河内国の弓削寺に行幸した際、敬福らは本国の舞(百済舞)を奏した(68歳)。
  • 天平神護2年(766)6月28日、刑部卿従三位・百済王敬福が逝去(享年69歳)

興軍は周留城(漢山)を拠点としていたが、豊璋と福信の間に確執が生じ、663年6月には豊璋が福信を殺害してしまう。この機に復興軍を壊滅させようと、唐と新羅の連合軍は水陸から周留城に迫った。周留城の救援に向かった倭の水軍は、劉仁軌(りゅうじんき)の率いる唐の水軍と錦江の河口(白村江)で遭遇し、戦いを挑んだがその堅陣を破ることはできなかった。両軍は翌日再び戦火を交えた。8月27日と28日の二日間唐の軍船と戦ったが大敗してしまった。世にいう「白村江の大敗」である。

60年の百済滅亡前後に倭国に来朝してきた百済王子がいる。義慈王の子・禅広(ぜんこう、禅光、善光とも書く)である。一説には、禅広は豊璋の弟とされている。あるいは兄の帰国を促すための来朝だったかもしれない。しかし、白村江の大敗で百済復興の夢は消えた。禅広はやむなく帰国をあきらめ亡命を願い出た。朝廷は、難波に居住地を与えて、一族を上級官吏として重用した。持統天皇の時、禅広に百済王(くだらのこにきし)の姓を与え、死後は正広参の位を贈ったという。

広の子・昌成(しょうせい)は幼年の時父に従って来朝したが、父より先に死亡した。天武天皇は小紫の位を贈っている。奈良時代になって、昌成の子・郎虞(ろうぐ、? - 737)が従四位・摂津亮に任じられた。敬福(697 - 766)は郎虞の第三子である。その敬福が史書に登場するのは、天平10年(738)、41歳で陸奥介(むつのすけ)に任ぜられてからだ。当時の位は正六位上だった。その後の彼の経歴を『続日本紀』から拾えば、上の表の通りである。

福は天平15年(743)に陸奥守(むつのかみ)に任ぜられる以前から、聖武天皇の信任を得ていたようだ。それは、多分に彼の性格によるものだろう。酒好き女好きだったが、物事に執着せず、常に清貧に甘んじ、家に余財などなかったが、政務をこなすことにかけては人一倍だったという。東大寺大仏に鍍金用の金が不足していたとき、陸奥の国から産出した黄金900両を献じたことは、聖武天皇をいたく喜ばせ、渡来系貴族としては最高の従三位の位を贈呈している。従三位は、律令制度の官位では親王の第三の位である三品(さんぽん)に相当する。

宮(なかみや)を本拠とする百済王氏は、奈良時代末期から平安時代にかけて繁栄を続けた。特に、百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫である高野新笠(たかののにいがさ)を母とする桓武天皇は、敬福の娘や孫にあたる百済王氏の女性を四人も妃にしている。またしばしば交野に行幸し、山野で狩りを楽んだという。天皇家と百済王家との深い結びつきが分かろうというものである。百済王氏一族は嵯峨天皇、仁明天皇とも婚姻関係を結び、平安時代中期まで中級貴族として存続した。



発掘調査が始まった百済寺跡公園

昭和40年の発掘遺構配置図
昭和40年の発掘遺構配置図
原真人教授によれば、文化財保護法による国の指定史跡は、1997年3月現在、全国で1150件あり、その中でも特に重要な国の特別史跡は61件に達するという。大阪府には64件の国指定史跡があるが、国の特別指定史跡はたったの2件しかない。一つは百済寺跡であり、今一つは大阪城である。

記のように、百済寺跡は昭和16年(1941)1月に国史跡に指定され、さらに昭和27年(1952)3月には国の特別史跡に昇格した。指定の理由は、奈良時代創建の寺院の遺構が大変良く残っており、また建立氏族が百済王氏であることが判明していることによる。

和40年(1965)に行われた発掘の成果は、枚方市が作成した『特別史跡 百済寺跡公園』にまとめられている。この特別史跡は、いわば日韓交流のシンボルである。整備後40年近くが経過した現在、史跡の老朽化が進み、再整備する必要が生じた。ところが、昭和40年の発掘調査の成果にいくつか疑問が生じた。たとえば、講堂の左右に延びる遺構が見つかっているが、発掘は途中で中断している、東院跡の建物跡や築地跡の調査が完了していない、などの問題点が指摘されている。そうした疑問点を解消するために、再調査を決断したという。

発掘調査中の西塔跡
発掘調査中の西塔跡
原教授は、さらに再調査によって創建時期も確定できるのでは、と期待しておられる。文献史学的には、百済王敬福の一代前の百済王南典(敬福の父または母の弟)が死亡したとき、敬福がこの寺を建立したとされている。そうであれば、創建は8世紀中頃となるが、それ以降の瓦も出土しているという。なにはともあれ、西塔跡の発掘がすでに昨年の11月から始まっている。

 追記:中宮の地名由来と装飾壁画古墳

済寺跡や百済王神社が所在する中宮(なかみや)という地名は、百済王一族の星辰信仰に関係があるという説がある。彼らは自分たちの住む場所が天空の真ん中、すなわち天の中宮にあると見なして、”中宮”と名付けたという。しかし、桓武天皇の生母の高野新笠が光仁天皇の”中宮(ちゅうぐう)だったことによるという説もある。

際日本文化研究センターの千田稔教授(歴史地理学)は、飛鳥の高松塚古墳およびキトラ古墳の被葬者について、ユニークな説を立てておられる。百済王一族が星辰信仰を持っていたことに着目され、四神や星宿が描かれた壁画古墳は「宇宙王」の墓であり、倭国に渡来した百済王家の一族の墓こそふさわしいとされる。そして、百済王禅広を高松塚古墳、息子の昌成をキトラ古墳の被葬者と推定しておられる。


[PR]
# by rakusen21 | 2015-03-05 10:36 | 歴史の真実 | Comments(0)