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主に謀略などの真実に関してわかってきたことを世の中の目覚ましアラームとして書いてます(^_^;) @TweetTVJP


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ゆうちょ銀行
記号 10560
番号 858351
ハットリ ジュンジ

他の金融機関からは
銀行名 ゆうちょ銀行
金融機関コード 9900
店番 058
預金種目 普通
店名 〇五八 店
  (ゼロゴハチ店)
口座番号 0085835

ーーーーーー
三菱東京UFJ銀行:五反田支店
店番 537 
普通口座 4701559
服部 順治

以上、よろしくお願いいたします。
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今も残る裏社会の忍者とその歴史:風魔忍者と鉢屋衆(忍たま風俗館)❣創価学会発祥の一月寺と渋沢栄一が祀った水戸徳川の東漸寺にある赤報隊❣

 以前、私達がツイートテレビで放送した「小沢一郎を殺せ」 で、その裏社会で暗躍していた忍者の歴史と現代への関わりを調べてくれた人がいた。

感謝、感謝!



また
というサイトのコピーもあった。

この方は丁寧にその現場にも足を運ばれて、コメントに下記のように残されていた。非常に貴重なコメントだったので、そのコメントを紹介し、この記事を終わります。
 なお、写真入りで、この周辺の案内をしている「水戸街道 道中記 (4)小金宿」もあります。
ここでも、石見銀山を仕切っていた尼子に仕え月山の麓に住んでいた鉢屋忍者 と 永妻家(あめ屋)が深い関係がある事が苗字の由来からわかるのでした。一番多く永妻の苗字が集中しているのが「尼子十旗 赤穴城跡(瀬戸山城跡)」の周辺で島根県飯石郡飯南町赤名あたりです。

 また鹿島昇氏の「日本史のタブーに挑んだ男」の書籍より得られた内容のツイートもここに一部、紹介します。

歴史にまつわる私のツイートリスト(その一部)

創価学会発祥の一月寺と渋沢栄一が祀った水戸徳川の東漸寺にある赤報隊❣
今も残る裏社会の忍者とその歴史:風魔忍者と鉢屋衆(忍たま風俗館)❣創価学会発祥の一月寺と渋沢栄一が祀った水戸徳川の東漸寺にある赤報隊❣_e0069900_13471232.jpg
今も残る裏社会の忍者とその歴史:風魔忍者と鉢屋衆(忍たま風俗館)❣創価学会発祥の一月寺と渋沢栄一が祀った水戸徳川の東漸寺にある赤報隊❣_e0069900_13313786.jpg






引用開始 -------------
03. 五月晴郎 2011年10月15日 15:11:20: ulZUCBWYQe7Lk : bxtHsuzmZA
「水戸藩専用の本陣であった日暮玄蕃(ひぐらしげんば)の家は、小金小学校より約10m南というので探してみたが、面影はなく、人に聞いても知らなかった。」
水戸道中3馬橋~我孫子

平成17年10月30日(日)

―重文を股くぐり仁王像・馬除土手の面影もない小金牧―

(平成17年11月7日更新)

【本日の行程:街道距離14km】

馬橋駅(9時30分)→萬満寺(9時55分)→小金宿(11時15分)→日光東往還との追分(14時30分)→柏神社(15時10分)→我孫子駅(17時20分)
--------------------------------------------------------------------------------
・9時30分馬橋(まばし)駅に降り立つ。今日は一日中曇りの天気予報だ。前回真っ暗になったので、道を馬橋駅入口まで戻り、馬橋という地名の由来となった馬橋を見たが、水路のような川とともに何ら風情は感じられない。

・右手東京ベイ信用金庫の前に「栢日庵立砂(はくじつあんりゅうさ)の居宅跡」と書かれた松戸市教育委員会が立てた白い案内標識がある。「旧水戸街道繁盛記」には「大川立砂」となっているが、東葛地方の有名な俳諧人で親子ほどの年の差があった小林一茶から爺と慕われ、一茶が度々訪れている。

・その向いに分家の大川米店があったはずだが、マンションとドラッグストアになっていて、店の人も知らない。少し離れた店の人が確かにあったと話してくださった。少し行って左手に大川の表札の旧家、萬満寺の向いに大川病院、その先に大川歯科があるが、関係があるのだろうか。

・道は萬満寺に突き当たる。萬満寺の仁王門の両側を守る仁王像は、眼光鋭く、巨大で筋骨隆々の体躯が黒光りしており、迫力満点だ。国の重要文化財に指定されている。毎月月末、右の仁王像の股くぐりで賑わうそうで、昨日まであったというから惜しかった。わずかの隙間しかないが、本当に大人がくぐれるのだろうか。

萬満寺仁王像(国重文)

・萬満寺を右に曲がってゆるやかな上り坂となる。6号線に合流する八(はち)ケ崎交差点の角右手に文化3年(1806)の道標がある。「左水戸街道」「右印西道」と刻む。

・そのまま6号線の右手を歩いていると、安楽亭の先に思いがけず松戸市教育委員会の「一里塚」の案内標識が目に飛び込んできた。予期せぬ発見にうれしくなる。

・二ツ木交差点の一つ先信号左手に蘇羽鷹(そばたか)神社がある。鳥居の右手にある天保11年(1840)の出羽三山等供養塔には「松杉をほめてや風のかをる音 はせを」と刻まれているのを発見した。芭蕉句碑だ。これも予期せぬことで、大発見をしたような気になる。境内には力石もある。神社の裏は、縄文時代前期(6000年前)の二ツ木向台遺跡になっている。

蘇羽鷹神社

・道は神社の向いの二股を右に入っていく。分岐点に「水戸街道」の案内標識があり、「現在地から北方の6号線との交差点までの約900mは当時の道形を残しています。」と書かれている。

・少し先、武蔵野線のガード下をくぐって行く。なるほど、幹線道路の喧騒から解放されて静かではあるが、大きなマンションが建ち並び、昔の風情はほとんど感じられない。けやき通りを横切って坂を上っていくと左に江戸屋酒店がある。この向いにも水戸街道の案内標識がある。この辺りはやや旧道の面影を感じる。

江戸屋酒店付近(右に「水戸街道」標識)

・国道6号の交差点に突き当たり、左に寄り道すると、常行院がある。何故か三つ葉葵の紋がある。墓地入口には、宝暦年間の古い六地蔵が並ぶ。

・国道6号の交差点に戻り、国道6号を横切って進む。

・暫らく行くと、右手に、新しいが門構えの立派な永妻家がある。家の前の案内板によると、屋号「あめや」で、水戸街道小金宿で古いのれんを誇る飴の製造販売業者だった。先祖には、大川立砂の門人もいて、小林一茶も宿泊したという。

・左手に一月(いちげつ)寺がある。鎌倉時代初期の創建で、江戸時代には、青梅の鈴法寺とともに関東地域の普化宗諸派を統括した。虚無僧で有名な寺だ。

・左手の古い連子格子の鈴木家は、江戸時代は玉屋という屋号で小金宿の旅籠を営んでいた。この建物は徳川時代後期の旅籠の原形をとどめているという。

小金宿旧旅籠玉屋

水戸藩専用の本陣であった日暮玄蕃(ひぐらしげんば)の家は、小金小学校より約10m南というので探してみたが、面影はなく、人に聞いても知らなかった。

・小金小学校バス停前、梅澤家の庭には、よく見ると、茂みに隠れるようにして、「明治天皇小金宿御小休所」と書かれた碑が建っている。これも大発見だ。

・その先左手東漸寺は、参道が長く、本堂までに三つの門がある立派な寺だ。ここにも三つ葉葵の紋がある。関東十八壇林の一つの名刹だ。

東漸寺

・道は、サティの前の交差点で右に曲がる。その右手北小金駅方面の側に文化5年(1808)の大きな道標がある。「平賀本土寺」と書かれており、北小金駅方向に直進すると、常盤線の先に本土寺がある。

・ここで一歩は、サティに飛び込んだ。さっきからトイレを我慢していて破裂寸前だったのだ。

・スッキリしたところで、綿貫書店に行ってみた。御主人は、野馬奉行の綿貫夏右衛門の子孫だという。「元は「月見里」と書いて「やまなし」と呼びました。桓武天皇から続いた家系でしたが、家康から綿貫という姓をもらいました。私で15代目です。綿貫家はさっきのサティの向い辺りだったといわれています。私は教師をしていましたが本屋は私の代で始めました。よくいろんなことを聞いて来られます。古文書類は、県の文書館に預けました。私は古文書が読めなくて・・・。」古文書というのは、大学で勉強しても、実際に庶民の字は、崩し方に個性があってなかなか読めないそうだ。「野馬除(よけ)土手?水戸街道沿いには残っていませんね。」「日暮玄蕃の家?梅澤家の隣辺りでした。子孫に遊び人がいて歌にまで歌われています。小金小学校入口の少し南の東側にある大塚家が屋号は井筒屋といいますが本陣だったと名乗っています。」と、地図を書きながら話に夢中になって、お客さんの釣り銭を間違えてしまう始末。これでは商売の邪魔だと、まだまだ聞きたい気持ちを抑えて退散した。

・再びサティに戻り昼食。サティの2階とデッキでつながる向いのビルに小金宿と小金牧の由来の解説が書いてある。小金牧は、古代律令制の官牧が起源で、徳川家康は、古代以来の牧場を整備、野田市から千葉市花見川区に及んだ広大な土地の小金牧の管理を綿貫氏に任せたのが野馬奉行の綿貫家の起こりだ。

・サティ前の右折から再スタート。右折した直後左手に道標が二基ある。新しい方は「右 水戸道」「左 なか連山道」、古い方は「右水戸海道」「明和五年」(1768)と読める。

・小金交番の交差点を横切ると銀杏並木になり、左右はマンション群だ。下り坂が続き、上り坂になってまもなく根木内交差点で6号線を横切る。

・根木内交差点の次の交差点から先は下り坂になる。

・根木内城址橋を渡ると緩やかな上りになり、道が左に曲がって右に大きく曲がる。右の角に「馬頭観世音」の文字塔が倒れている。その横に地蔵がある。

・再び左に大きく曲がる右手に、須賀工業の研修所があり、その下に宝暦12年(1762)の青面金剛と享保9年(1724)の庚申塔がある。その先のバス停に「庚申塚」とあるのはこれのことか。

庚申塚

・左手に行念寺がある。元禄5年(1692)の如意輪像などがある。

・中新宿(なかしんじゅく)バス停を過ぎ、いつの間にか流山市に入っている。左手に、青面金剛と聖徳太子と書かれた碑がある。

・左手に香取神社がある。江戸初期創建、旧向小金(むかいこがね)新田の産土神だ。一里塚跡の碑があり、一茶の句「下陰をさがしてよぶや親の馬」が書かれている。境内には古い庚申塔もある。

香取神社(鳥居左に一里塚跡碑)

・柏市に入り、今谷上町(いまやかみちょう)の左手民家の前に土手のようなものを見付けた。「これこそ野馬除(よけ)土手だ。」と思った一歩は、道行く人に聞いてみたが、残念ながら野馬除(よけ)土手という言葉そのものの理解が得られなかった。一歩は、なま道を歩いたとき五香の先で見た野馬除土手跡を思い出していた。(百街道一歩のなま道3参照)

・「南柏駅東口」と書かれた交差点手前角にある稲荷神社は、今時珍しい茅葺だ。

茅葺の稲荷神社

・その一つ先の交差点右手に、今谷上町八坂神社があるが、その前に「水戸街道と松並木」と書かれた案内板がある。野馬奉行綿貫夏右衛門が水戸侯から資金を得て、両側に千本の松を植えたのが松並木の始まりだったという。つい最近まで、松が残っていたようだが、今はもう見られない。

・左が日光東往還の交差点右手には、中嶋家、たんば家?と大きな家が続く。ここは、日光東往還との追分で、左の日光東往還を行くと関宿(せきやど)を経て雀宮で日光道中に合流する。この辺りは、野馬土手の木戸があったというが、今は、少し先右手豊受(ゆたか)稲荷神社の前の「新木戸」というバス停に名残をとどめるのみだ。

日光東往還入口

・左手に神明神社がある。案内板によると以下のとおり。明治政府は、殖産事業として徳川幕府の下総牧場であった小金牧と佐倉牧を開墾した。そして開かれた土地には、初富(はつとみ)(鎌ヶ谷市)、二和(ふたわ)(船橋市)、三咲(みさき)(船橋市)、豊四季(とよしき)(柏市)、五香(ごこう)(松戸市)、六実(むつみ)(松戸市)、七栄(ななえ)(富里村)、八街(やちまた)(八街町)、九美上(くみあげ)(佐原市)、十倉(とくら)(富里村)、十余一(とよひと)(白井市)、十余二(とよふた)(柏市)、十余三(とよみつ)(大栄町)と、順番に美しい地名が付けられた。この地柏市富里は、かつては豊四季の一部だった。武士を始め次男、三男や変革により職を失った入植者がこの神社を創建して心のよりどころにしたという。

・東武野田線の高架下をくぐると、柏の市街地になる。

・繁華街の中心である柏駅入口近く、右手柏神社の前には、「水戸街道の木戸」と書かれた案内板があり、「小金牧」と、「野馬土手」の解説が書かれている。牧と村の出入口に馬が入ってこないように木戸が作られた。木戸があった所が柏一番地だという。

・柏神社は、立派な神社だ。入口の所に、大きな銀杏の木があり、庚申塔も並んでいる。宝永4年(1707)の文字が読める。

柏神社

・左手サンサン通りの交差点を渡った左側角の駐車場前に「明治天皇柏御小休所」の碑がある。

・16号線手前左手にこんもりした森が見える。ここは、諏訪神社だ。「奥にもいろんな末社がりますよ。」と、境内で話しかけてきた女性が「豊四季にも諏訪神社があります。」と語る。

・柏公園の表示がある非常に大きな交差点は、その名も「旧水戸街道入口」。ここで16号線を横切る。

・前方に玉姫殿のおとぎの国のような建物が見える。旧道はこの手前で常磐線に寸断されている。やむなく常磐線を跨ぐ陸橋を行く。

・線路伝いに北柏駅方向に向かう途中、左手に、馬頭観世音菩薩がある。道標を兼ね「な可れやま道」と書かれているように思う。

・「北柏入口」の辺りの道は複雑だ。6号線とアサヒビール工場にはばまれているので、曲がりこむように歩いて、アサヒビール工場の前を右折、「ちがね橋」バス停の前の通りに出る。

・その先をずっと上って行くと右手に北柏駅がある。上りはそのすぐ先まで続き、下りになる。

・夕闇迫る根戸の集落の辺りは、古い大きな家が多く、落ち着いた佇まいだ。旧道らしさという点では本日一番だろう。

根戸の集落

・左手に東陽寺がある。緑に包まれた落ち着いた静かな空間が広がる。本堂の建物も立派だが、その横に広がる庫裏と庭の芝生が御殿のようで目を見張った。

東陽寺

・右手に妙蓮寺がある。案内板によると、ここには我孫子市指定文化財、仁阿弥道八(にんあみどうはち)作「陶製仁王像」があるそうだ。

・右に大きくカーブすると、最初の信号左手に、祠が見える。二十三夜塔があり、その横に何故か折れた道標のようなものが重ねて置いてある。

・国道6号を渡って、なおも356号を行く。常磐線が近づいて来る。「台田」というバス停だが、左右は畑なのに、前方左手に巨大なマンション群が建っているのが印象的だ。

・常磐線を再び陸橋で跨ぐと我孫子駅も目前だ。真っ暗な中、我孫子駅に行く途中、八百屋さんで見たこともない巨大なサトイモを見付けたので土産に買い求めた。「セレベスの親」と書かれている。

・我孫子宿の探訪は、次回の楽しみとし、本日は、我孫子駅までとする。


04. 五月晴郎 2011年10月15日 15:23:00: ulZUCBWYQe7Lk : bxtHsuzmZA
小金城(千葉県)
--------------------------------------------------------------------------------
所在
 総武流山鉄道、その名も「小金城趾」駅から徒歩10分程度。駅から見て東側にあたる大谷口歴史公園がかつての小金城跡である。ただし、本来の小金城は広大な面積を占める巨城であり、他にも旧城域の遺構が部分的に残っているというが、今回は公園だけの見学にとどまった。

沿革
 「大谷口城」とも呼ばれる。関東の名族・千葉氏を支えた重臣・原氏のそのまた家臣にあたる高城氏の居城。築城は天文6年(1537年)、高城胤吉によると伝えられる。主家をしのぐ勢力を誇った高城氏は、小田原北条氏が下総に進出してくるとこれに従い、他国衆に名を連ねて各地を転戦した。下総屈指の実力者が居を構えた城にふさわしく、その規模はいくつもの丘陵地にまたがる巨大なものである。しかし北条氏の滅亡後に廃城となり、二度と再建されることはなかった。現在の小金城跡は、戦後の開発による変化が著しく、大谷口歴史公園など一部の遺構を除けば在りし日の姿を偲ぶことは難しい。

見聞記
 2010年1月30日訪問。実は家からかなり近いところにあるお城で、前々から一度行かんといかんなと思っていた。いや、別に近くたって見に行く義務はないのだろうけれども、一応。

 常磐線を馬橋で乗り換え、流山鉄道に乗って小金城趾駅へ。宅地化が進んでいるとはいえ、ところどころに畑も残り、まずはのどかな風景である。
 駅の東口から出、城跡のある大谷口歴史公園へ向かう。駅前の道を右に歩き、運動公園のある突当たりを左折すると、あとは道なりに歩いていけばよい。途中、道の右側に木が茂った微高地が見え、「大谷口馬屋敷緑地」という地名の看板が出ているが、これも城の遺構に含まれる。細長く削平されたような土地で、道側がわずかに盛り上がっているのは土塁の跡にも見える。それにしても「馬屋敷」とは面白い地名で、城のための軍馬を飼う場所だったのか、それとも馬の飼育を担当する武士の屋敷があったのか。

 馬屋敷からもう少し先に進むと、目当ての大谷口歴史公園に出る。木々に覆われた背の低い丘で、一見したところは何の変哲もない森林公園でしかない。しかしこれこそは、下総の大城郭・小金城の在りし日の姿を今に伝える貴重な史跡であり、土地所有者の厚意により歴史公園としての保存が可能となったものである。都市化の波に洗われる場所では、このような有徳人に巡り合わない限り、戦国の城跡が生き残ることは難しいのだろう。
 大谷口歴史公園は、かつての小金城内では金杉口と呼ばれていた虎口の跡にあたる。これは城の北側の出入り口であったらしい。入口付近に木でできた簡単な冠木門が復元(?)してあるのは、門であった当時を表現しているのだろう。発掘調査により様々な発見があったらしく、ところどころに詳しい説明の看板が立っているのはありがたい。
 ただし遺構が大規模に残っているわけではなく、一見したところ城跡とは分かり辛いかもしれないが、例外として障子堀跡がある。底に1か所、敵の動きを阻害するための間仕切りが設けられた堀である。小田原北条氏の勢力圏で多用された技術であり、高城氏が北条氏の傘下に入ったことと無関係ではないだろう。ただし、肝心の障子(間仕切り)部分は保存のため土に埋め戻してしまったようで、現在ではただの空堀にしか見えないのはちょっと残念。

 遊歩道に沿って緩やかな丘を上っていくと、背の低い土塁に縁取られた方形の空間に出る。ここが大谷口歴史公園の中心であり、昔は曲輪の一角だったのだろう。土塁は高さも幅もそれほどの規模ではないが、説明板によれば外側に空堀が設けられていたため土塁を大きくする必要はなく、身を隠す程度のものでしかなかったとのことである。
 別の説明板では、航空写真を利用し、かつての城域が図示されていた。これによれば、まさしく巨城としか表現しようのない、圧倒的なスケールを持つ城であったらしい。このほとんどが宅地化してしまったのか…改めて、人間という生き物は過去の上に現在を積み重ねて生きているものだなと思う。

 もう少し先に進むと、一段下がったところに畝堀の跡が現れる。空堀の中に幾条もの畝を作り、堀底に侵入(転落)した敵兵の動きを止めるための工夫で、先に見た障子堀と同じく北条系の城郭ではおなじみの存在だ(この城跡では畝が一つしかないものを障子堀、複数のものを畝堀と呼称しているらしい)。当城では比較的明瞭に畝が残っているとのことで、楽しみにしてきたのだが…実際に見てみると、発掘以来数年を経て堀底に土が溜まってしまい、畝はほとんど見分けがつかなくなってしまっていた。ネット上で公開されている写真によれば、数年前までは明瞭に保存されていただけに、無念極まりない話である。ただし見方を変えれば、城などというものは絶えざる補修作業がなければ保ち得ないのだ、ということの証明にもなりそうだ。畝堀の溝掃除に駆り出されて、ぶつぶつ言いながら作業をしていた昔の人の姿が浮かんでくるような。

 金杉口方面の遺構はこのくらいだが、折角なのでもう少し足を延ばして大勝院へ。これは高城氏によって、祈願寺として当地に招かれた由緒ある寺院で、「遠矢山大勝院」という珍しい寺名が武将の庇護の歴史を物語っている。往時に比べると寺の規模はかなり縮小しているらしいが、それでも広壮な境内に樹齢500年のイチョウ、700年のヤマザクラなどがそびえる、雰囲気のあるお寺さんだ。 
 また、寺の由緒を開設した説明板には、宅地化の推進により小金城(大谷口城)の遺構を「破壊」した不動産会社が名指しされており、地域の開発にあたって当寺との間に何らかのいきさつがあったことをうかがわせる。詳しい事情は分からないから何とも言えないが、やはり創建当初から小金城を守護してきた存在として、城の運命には特別な思いがあったのかもしれない。

 帰りはまた馬橋経由だったのだが、折角なので万満寺に寄っていくことにした。馬橋駅から徒歩5分程度、鎌倉時代からの由緒を持つ古刹である。天文年間には小金城主高城氏が京都の大徳寺からこの寺のために僧を招いたこともあるという。夕闇迫る中、風情のある伽藍を歩くのは気持ちのよいものだ。寺内では何といっても山門の仁王像が素晴らしいが、軒にしつらえられた獅子の木彫りなどもユーモラスで独特の表情をしている。
 寄り道ついでに、万満寺の隣にある王子神社にも参ってきた。こちらは特に予備知識もなく、本当にふらりと立ち寄っただけなのだが、境内の一角に並ぶ庚申塔が秀逸であった。青面金剛も踏みつけられている魔物も三猿も全てが味わい深く、見入ってしまった。有名なお堂や仏像も勿論よいものだが、こういう何気ない石像で「掘り出し物」があるとやった!という感じですね。ただ単に見て楽しいだけでなく、当時の人々の世界観や信仰心について考えるきっかけにもなり、一粒で二度おいしい。こういうところが神社仏閣の(本来とは別の意味での)ありがたさではないかと思う。

小金城アルバム 
http://www.toride.com/~roshiashi/koganephoto.html

小金城主・高城氏の歴史

05. 五月晴郎 2011年10月15日 15:39:56: ulZUCBWYQe7Lk : bxtHsuzmZA
小金城(大谷口城・松戸市大谷口)
(小金城鳥瞰図)


小金城はこの地の豪族で原氏の家老であった高城氏の居城で、戦国時代の下総地方を代表する巨城であった。 (略)

 高城胤吉は享禄3年(1530)から7年の歳月をかけてこの城を築いたという。比高20mほどの台地を空堀によって堀切り、郭を複雑に配置している。残念ながら、そのほとんどは現在では宅地化されてしまい、馬場曲輪の一部のみが「大谷口歴史公園」としてわずかに整備されている。小金城の落成の式典では、佐倉城主の千葉昌胤も訪れ盛大な宴が張られたという。(略)

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「鎌倉時代に金先禅師によって創建されたと伝わる一月寺。元々は青梅の鈴法寺と共に関東地方の普化宗諸派の本山で、いわゆる時代劇で馴染み深い虚無僧の拠点といった寺であった。明治4年(1871年)太政官布告によって普化宗は廃止となり一月寺は廃寺となったが、昭和30年代に日蓮正宗に改宗し、更に”いちげつでら”から”いちがつじ”に読みを変えて再興された。」

「天保9年(1838年)小金宿の商家に生を受けた竹内廉之助とその弟哲次郎は、尊皇攘夷の急先鋒となった水戸天狗党の挙兵に参加。哲次郎は敵対する幕府軍によって負傷し、24歳の若さで自害して最期を遂げるが、廉之助は幕府に捕らわれの身となって土浦に投獄される。後に釈放され謹慎の身となるが、大政奉還によって世の中が大きく動き始めると、後の赤報隊隊長となる相楽総三と運命の出会いを果たして赤報隊に参加する。赤報隊については以前の記事に詳しく書いたので参照してほしいのだが、竹内廉之助とは後の金原忠蔵のことだったのだ。追分戦争で致命傷を負い非業の死を遂げた金原忠蔵が小金宿の出身だったとは…この事実を知った時にはちょっと身震いがしたよ。」

06. 五月晴郎 2011年10月15日 15:58:54: ulZUCBWYQe7Lk : bxtHsuzmZA
>≫3≫≫4 >>5
は、フォロー元記事の中の
「小沢一郎の知る闇1/2創価発祥の地:風魔一族の系譜」
「小沢一郎の知る闇2/2創価発祥の地:風魔一族の系譜 」

を聴きながら読むと(フォロー元記事も、投稿記事も)いいですかね。

07. 五月晴郎 2011年10月15日 18:33:12: ulZUCBWYQe7Lk : bxtHsuzmZA
金竜山一月寺

鎌倉時代の正嘉年間に創造され開基は金先(●先)居士である。
居士は正嘉2年(1258)10月13日入寂。
普化宗旧記一月寺の項によれば、次の如し。
開山は金先古山禅師也。金先と言うは人皇88代聖帝深草院の治天に建長の頃、紀州由良の法灯国師御入宋して帰朝の時普化禅師の四居士宝伏、国佐、理正、僧恕同船して我朝に至る宝伏居士暫く山城宇治の辺に居をしめ普化の禅を融通せんと庵室を結んで行住座臥の法容偏に普化の遺風を慕う居士専ら尺八を吹いて始祖振鐸の話に準拠す。
時に中秋の夜川辺にて一曲を催す。
其夜万里雲なく月光河水を照すこと金竜波におどるに似たり、爰において頓に水辺を起し一端をそめて一天清光満地金竜波と言句を設けたり其頃頭陀あり。
金先と名付く、宝伏の法莚につらなり倶に尺八を奏し行脚修行して所々を経巡り東に下り下総国小金の宿に止り光陰をすぎしむ。
然るに宝伏居士年を経て卒しぬ。
金先其法統をついで妙音また奇なり、聞く五感六欲の昔迷を照し本来無一物の順縁を結ふもの多し、髪に一宇を造立し宝伏の遣意に任て山を金竜山と号し寺を一月寺と号す。
此時の執権北条平経時、金先の碩徳を尊んで造立の大且那として之を経営し金竜山一月寺と言う。此の開山則金先禅師なり。
金先を以て菰僧の基とす。
「尺八筆記」には其後宝伏卒し金先一宇を造立し、宝伏の遺言により山を、金竜山と号し月は一翰万境を照す、普化の異名を取って一月寺と号す、普化を祖として益々尺八を吹き宝伏の素志を伝えん事を欲す。
正嘉二戊牛の春三月勅諚によって参内し尺八を奏しければ、天機叡慮ありて精舎、地並に禅師号を賜ひあまつさえ宸翰を染められ金竜山一月寺とす。
同年10月13日金先寂す。其徒金先の愈をつぎ二世の住職となる。
二世鼓岩了波のとき北条長時朝臣随喜し給ひ、新に堂塔を造営し霊仏庄園を寄附し給う。
また亀山天皇の文応元年(1260)三浦の一族戸部某其領地を没取され、家臣数十人と共に一月寺にかくれ行脚修行のうち、春が巡って北条時頼に召出されて旧主にかえった。
また文明年間(1470~1486)50世住職覚祐の時代北条家没落で、堂中破損し寺領没落されたのを51世住職松滴と、二代の住職を助けて寺を再建したのが、狂僧小烏坊と言われる。
小烏は身長6尺3寸頭髪6尺6寸に及んだと言い、「文明の頃の人、頭髪は身に等し道を行く事、甚だ早く或る時箱根権現にて尺八を吹きしかば山谷鳴動す、吹終って八尺有余となり光明を放って去るといえり時人、多門天皇の化身なりと言う」一月寺の寺歴は同寺が慶応年間に焼けた為、殆ど不明であるが開山以来第115世は長田逸平と言い、その代で明治4年の廃宗となったが後にその娘婿が第116世として、一月秀興と名乗りその息正空117世をっいだ後また正空の兄がその跡をっいだが後逐には、寺は創価学会に売渡された。
また天文年中小金城落城して、一月寺破損したので大谷口から風早庄に移った。
この時豊臣秀吉が寺院保護の為「一銭切の制本山を下附した(万願寺に現存。
当時は方願寺の支配下にあった)之は矢張り明暗寺が興国寺の未寺である如く一月寺も万願寺の末寺となり指示を仰ぎ住職の任免をされていた。
一月寺最後の住織は宵海蚊竜で天保13年寂以後は住職なし。
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「罪を犯した武士が普化宗の僧となれば、刑をまぬがれ保護されたことから、江戸時代中期以降には、遊蕩無頼の徒が虚無僧姿になって横行するようになり、幕府は虚無僧を規制するようになった。」
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一月寺と虚無僧の暮らし

松戸には昔すこし風変わりなお寺があったのを知ってますか?今回はそんなお寺と住民のお話です。

●どこからでも来い!

江戸時代の小金町には、普化宗金竜山一月寺という大変風変わりなお寺がありました。別名虚無僧寺といわれたこのお寺は、お経を読むものもなく、仏事らしいことはさっぱり、カラスがカーカー朝から鳴いているだけというお寺だったそうです。ただ虚無僧といわれる武士の平服に紺黒五条の袈裟をかけ、深編み笠をかぶり、尺八を吹きながら行脚、托鉢をする半俗半僧、有髪の人々がどこからともなく集まり、そしてまた去ってゆくという、日本昔ばなしにでてきそうな感じだったそうです。

●もしかして迷惑寺?

一月寺は全国の普化寺院7派67箇所の中心的な位置にいました。お寺の住職は虚無僧と違って、普化宗門の宗主なので頭を丸め、香衣を着ることもありました。しかし前述のように仏事を行なわなく、経典の代わりに尺八を吹いている為、寺院活動での収入はありませんでした。主な収入は房総3ヶ国各村々の喜捨でした。それも、みすぼらしい虚無僧が托鉢に来ないように、という迷惑御免料という形で喜捨されたようで、昔の虚無僧の社会的な位置が低かったのが分かります。

現在の一月寺

虚無僧寺で現存しているのは全国で一月寺だけで、由緒ある寺として松戸市小金に今でも住宅地にまぎれてひっそり建っています。

虚無僧とはなんぞや

唐代の風狂僧鎮州普化和尚の生き方にならい、世間は虚仮で実体がないと観じ、心を虚無にし、尺八を法器とし、尺八を吹くことで禅の奥義を窮めんとしたことから名付けられた。実際には、禅僧としての活動はせず、尺八を吹いて金銭を乞う遊芸人にすぎない者や、自由に旅をできる特権を生かし、浪人や無頼の徒が身を隠す手段に利用した。ぼろをまとって物乞いをしたので暮露や、こも僧ともいわれた。のちには美服を着用し、ビロードに金糸縫取りの尺八袋をもつ伊達姿の虚無僧も現れたという。「徒然草」にも言及されており、今もってテレビの時代劇や、街頭で大人気のキャラクターといえるでしょう。
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起源と歴史

元々「一月寺(いちげつでら)」は、武蔵野国新町の鈴法寺と共に普化宗の触頭として関東総本山という地位にあった。伝承では正嘉年間(1257年 - 1259年)に金先古山禅師によって創建されたと伝わる。徳川幕府の庇護もあり、隆盛を極めた。

『虚無僧略縁記』(年代不明・星咬輝蔵)には以下のような記載がある。

「宗旨を元祖とたて普化禅宗と申、然るに其弟子虚無僧金山金松覚て常に、どうしやうと言う、竹壱尺八寸(原註歩)穴の数12ある笛を吹、是尺八の初也、元祖有時船遊びしたまえば俄に霧ぶり四方かすみ、船頭是を悲めば普化和尚彼宙を取て観音経を祈させたまへぱ、霧はるゝと言う。真後八百年以前に日本の元祖法灯国師和尚比伊奈と云俗弟子を連れて入唐したまい、普化和尚に尊拝す。比伊奈は金山金松の笛を伝授し、後和尚を伴ぴ日本に帰り、比伊奈居士は諸国行脚を志し下総国にて清浄の地を求め小金といぶ所に金龍山一月寺と申寺を建立す(後略)」

ところが、明治政府の方針により、幕府と縁の深い普化宗自体を廃止されたので、以降僧侶は僧侶資格を失い、近くの万満寺の助力を得ながら在家が管理する形となっていた。

昭和30年代(1955年 - 1964年)、妙縁寺総代(後に法華講連合会第三代委員長)であった佐藤悦三郎の仲立ちにより、日蓮正宗に改宗、「いちがつじ」と読みを変更して現在に至る。

ちなみに普化宗時代の寺宝は松戸市に寄贈されており、現在松戸市立博物館などで見ることが出来る。
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08. 五月晴郎 2011年10月15日 18:53:11: ulZUCBWYQe7Lk : bxtHsuzmZA
鉢屋衆は八切止夫がいう契丹系日本原住民と重なるような印象ですね。江戸期の大名では加賀の前田とか。
フォロー元記事中の橘孝三郎や立花隆の「橘」氏は、契丹系という指摘を八切止夫がしています。
上記YouTube内の「小金城を支配した一族」は、製鉄集団と関わりが深い印象が強い。

ーーーーーーーーーーーー引用終わり





by rakusen21 | 2015-03-20 00:05 | 歴史の真実 | Comments(0)